伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

談話の語り手も範囲も間違い

『ヌレエフ』P.169:
その野性的で野良犬のような性格は頻繁に紙面をにぎわせた。
Meyer-Stabley原本:
Un danseur se souvient du côté sauvage et indompté du personnage :
Telperion訳:
あるダンサーは、彼の人物の野性的で飼いならされない面を覚えている。

P.169から170にかけての「彼は怒り狂ってバレエシューズを放り投げ」で始まり、かぎ括弧で囲まれた長い談話の前置き。この前置きのせいで、談話は一見、当時の記事の引用に見える。

語り手はジャーナリストでない

  • 文の主語"Un danseur"(1人の男性ダンサー)は、不定冠詞unが付いているので、ヌレエフではなく匿名のダンサー。ヌレエフなら特定のダンサーなので、定冠詞leが付くはず。
  • 文の述語"se souvient"は「覚えている」。Meyer-Stableyは談話を引用するとき、談話主を説明する文でこの動詞をよく使う。

つまりこの文は談話主の説明文で、「あるダンサーがこう語った」という意味。どこに載った談話なのかは分からない。死後出版された伝記に初めて載った可能性もあるわけで、当時の報道だと決めてかかることはできない。

新倉真由美訳の「頻繁に」は、souvientをsouvent(たびたび)と見間違えたと思われる。

Meyer-Stableyの叙述まで談話の一部にされる

原本によると、実はこのダンサーの談話は「ヌレエフがシューズを投げてあれこれ罵倒し、女性ダンサーたち(原文ではdanseuses)が身を隠していた」だけ。訳本だと「息をひそめて避難していた」で終わることになる。実際、一人のダンサーによる目撃談なのだから、このくらいの狭い範囲のほうが自然。

新倉真由美はダンサーの談話に続くMeyer-Stableyの叙述までも、かぎ括弧で囲んでしまった。つまり、全部が当時の報道にされている。しかし注意深く見ると、当時のマスコミの文にしては不自然な文が混ざっている。

  • 「怒りがぶちまけられ、騒動が起きた」といった抽象的な言い方。当時の報道なら具体的な事件に呼応するのだから、どういう騒動なのかをいちいち書くほうが自然。
  • タイトルをつけるジャーナリストたちの心境という、マスコミ自体への言及。

これらの文はもちろん、後から総括するMeyer-Stableyの視点で書かれている。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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