伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ソ連当局による優遇と締め付け

『ヌレエフ』P.77:
ルドルフが妻のタチアナが怪我のために同行できないユーリ・ソロヴィエフと同室だと知らせるには細心の注意を払った。KGBの同行についても知らされていなかった。
Meyer-Stabley原本:
On prend d'ailleurs bien soin de prévoir que Rudolf partagera la chambre de Youri Soloviev (dont l'épouse, Tatiana Legat, reste en Union soviétique à cause d'une blessure). On n'en prévoit pas moins un grand nombre d'accompagnateurs du KGB, évidemment en civil.
Telperion訳:
その上、ルドルフがユーリ・ソロヴィエフ(妻のタチアナ・レガトは怪我が原因でソ連に残った)と同室になるように細心の注意を払って準備された。それでも、もちろん私服のKGBの同行者が多数準備された。

キーロフ・バレエの大規模な西側諸国ツアー前のいろいろな準備。

最後の文にある"n'en ~ pas moins"は「それでもやはり~だ」というイディオムで、仏和辞書のmoinsの項に載っている。enとpasに挟まれるのは動詞だけだが、「それでも~だ」と形容されるのは、n'enと"pas moins"を除いた文全体。この場合は、"On prévoit un grand nombre d'accompagnateurs du KGB"(KGBの同行者の多人数が準備される)。

ヌレエフの同室者選びとKGBの同行について使われている動詞prévoirは、仏和辞書を引くと「予想する」「予定する、準備する」とある。「知らせる」とか「知らされる」とか解釈できそうな単語ではない。ここでは、「細心の注意を払って(prend bien soin de)予想する」よりは、「細心の注意を払って準備する」のほうが自然な文になると思う。

原本の文のつながりが訳本で壊れる

最初の文に「その上」(d'ailleurs)という前置きがあるのは、直前に「独身のヌレエフがツアーへの参加を許可されたのは驚くべきことだ」(「三日月クラシック」の記事より「P.77 ヨーロッパ行きに際し~」の項を参照)と書いてあることを受けている。つまり、ヌレエフがソロヴィエフと同室になることは、ツアー参加を許可されるのと同様、ヌレエフへの優遇だとMeyer-Stableyが見なしているのだろう。訳本P.162でソロヴィエフの名が人気男性プリンシパルの例として挙げられるように、ソロヴィエフはキーロフの若手ホープであり、ワガノワではヌレエフを抑えて脚光を浴びていたらしい。

その後、Meyer-Stableyは逆接の"n'en ~ pas moins"(それでも~だ)というイディオムとともにKGB職員の同行予定を書くことで、「ヌレエフが異例の待遇を受けたとはいっても、KGBの監視は免れない」とほのめかしている。

一方、訳本では3つの文がすべて原文と違う意味になっており、互いにまったく関連のない文が脈絡なく並んでいるだけに見える。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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