伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2015.01.30
サッチャー首相時代にフランスでアルゼンチンが戦争?
2015.01.28
大外れにされたチャールズ皇太子再婚時期の予測
2015.01.25
なかったことにされたダイアナのマスコミ操作
2015.01.23
職名のからかいが職員や絵画の侮蔑に激化
2015.01.21
嘲笑の対象ではない白鳥担当者

サッチャー首相時代にフランスでアルゼンチンが戦争?

『バッキンガム』P.80:
彼女がアルゼンチンに手を差し伸べなかったサン・マロの戦いとすべての交渉を拒否したレバノンの人質事件後、鉄の女に苛立った女王の長男は、恵まれない国民たちに同情し、若い失業者やホームレス、一般的にイギリス社会の売れ残りと言われている人たちと積極的にコンタクトを取るようになった。
Meyer-Stabley原本:
Notamment après la guerre des Malouines, où elle n'avait pas daigné tendre la main à l'Argentine, et dans l'affaire des otages du Liban, où elle s'obstinait à refuser toute négociation. Plus irritant pour la Dame de fer, le fils aîné de la reine manifestait la plus grande sympathier pour la poulation déshéritée de son royaume et n'hésitait pas à multiplier les contacts avec les jeunes chômeurs, les sans-abri et, en général, tous les laissés-pour-compte de la société britannique.
Telperion訳:
特に、彼女がアルゼンチンに手を差し出してやらなかったフォークランド紛争後、そして彼女がいかなる交渉も頑として拒絶したレバノン人質事件のときである。鉄の女にとってさらに苛立たしいことに、女王の長男は王国の恵まれない国民に最大限の同情を示し、ためらうことなく若い失業者やホームレス、そして一般に英国社会の落後者すべてと接触を重ねた。

チャールズ皇太子と首相時代のサッチャーの関係を述べた段落より。皇太子が「マーガレット・サッチャーの病的ともいえるほど妥協しない性格(新倉本より)」を良く思わなかったという意味の文に続く。

サン・マロからフォークランドは連想できない

勘のいい読者なら、「戦い」「アルゼンチン」「サッチャーの任期中」といった手掛かりから、「サン・マロの戦い」とは何かを推察するかも知れない。私はそこまで頭が回らず、まずサン・マロを律儀に調べ、フランスの町Saint-Maloだと知った。おかげで「なんでサッチャー首相時代(1979-1990)にフランス本土で戦争が起きるんだ」「アルゼンチンとサン・マロに何の関係が」と頭を抱えてしまった。その後、さっき書いたようなキーワードから、フォークランド紛争を思い出したが。

仏和辞書にフォークランドの項はないだろうが、今は"guerre des Malouines"でgoogle検索すれば、説明ページがいくつもヒットする。フランス語wikipediaの"Guerre des Malouines"記事には、"Falklands War en anglais"(英語ではFalklands War)としっかり書いてある。

仏和辞書にはMalouin(e)が「サン=マロの住民」とある。それをもとに"la guerre des Malouines"を「サン・マロの戦い」と訳したくなっても不思議はない。でも「サン・マロの戦い」はあまりにもありえないし、フォークランド紛争はあまりにも有名。仏和辞書の限界という事情はあるにせよ、ここは見過ごせない。

紛争や人質事件はサッチャーの妥協知らずの例

引用した最初の原文は、主語と述語をそなえた厳密な文ではなく、「フォークランド紛争後と人質事件のとき特に」だけで終わっている。文の一部となるべき語句が、あまりの長さに本文から切り離されたのだろう。

新倉真由美はこの語句を、社会的弱者に優しい皇太子に関する後の文につながると独り決めした。あるいはピリオドをコンマと見間違えたのかも知れない。でも原文が前と後の文のどちらに付くのかは断言できない。だから前後どちらからも切り離して訳すほうが無難。

私としては、「フォークランド紛争後と人質事件のとき特に」は前の文、「皇太子はサッチャーの妥協知らずの性格に好感を持っていない」につながっていると思う。どちらもサッチャーの妥協知らずが発揮された例だから、「あんなに強硬な態度は気に入らない」というリアクションを誘ったかも知れない。「レバノンの人質事件」については別記事で説明しなければならないが。

相手に苛立ったのはチャールズでなくサッチャー

原文の第2文は、次の分詞構文で始まる。

Plus irritant pour la Dame de fer,

次の2点から、相手を苛立たせるのはチャールズ皇太子だと分かる。皇太子がサッチャーに苛立ったなら、"irritant pour"でなく"irrité par"のはず。

  • irritantは動詞irriter(苛立たせる)の現在分詞なので能動の意味を持つ
  • 分詞構文の主語は主文の主語"le fils aîné de la reine"(女王の長男)と同じ

"la Dame de fer"(鉄の女性)"の前にある前置詞pourは、ここでは「~にとって」という意味でないと、その前の"Plus irritant"(もっといらいらさせる)につながらない。つまり、サッチャーはチャールズ皇太子にいらついた側。"

大外れにされたチャールズ皇太子再婚時期の予測

『バッキンガム』P.272:
ソフィはとめどなく話し続け、女王のことを気取って〈親愛なるあの老婦人〉と呼び、チャールズ皇太子と並べてすさまじい勢いでこき下ろした。そして「彼の再婚は、いつかあの老婦人がこの世からいなくなってからになるでしょう…」と言った。
Meyer-Stabley原本:
Mais Sophie, une fois lancée, ne s'arrête pas là, et commet l'irréparable en s'attaquant... à la reine elle-même, qu'elle appelle cavalièrement « cette chère vieille dame », et aussi au prince Charles : « Son remariage se fera un jour lorsque la vieille dame [là, c'est de la "Queen Mum" qu'il s'agit...] ne sera plus de ce monde. »
Telperion訳:
しかしひとたび駆り立てられたソフィはそこで止まらず、取り返しのつかない行為に及んだ…無遠慮に「あの親愛なる老婦人」と呼び、女王その人を攻撃したのだ。そしてチャールズ皇太子も攻撃した。「あの人の再婚は、老婦人(ここでは「クイーン・マム」のことである)がもうこの世にいないいつか行われるでしょう」

2001年、ウェセックス伯エドワード(日本ではエドワード王子と呼ばれるほうが多いかも)の夫人ソフィが変装した記者の前で失言した事件について。

不可欠な名指しが削除される

ここで何よりも注目すべき点は、"la vieille dame"(老婦人)に続く次の注釈が新倉本から消えたこと。

[là, c'est de la "Queen Mum" qu'il s'agit...]
  • MumとはMotherの愛称。つまり"Queen Mum"とは、エリザベス二世の母であるエリザベス皇太后、通称"the Queen Mother"のこと。新倉本の第14章「皇太后と女王の夫君」の最初の段落にも、「愛情をこめ、“クイーン マム”と呼ばれ」と書いてある。
  • [c'est de la "Queen Mum" qu'il s'agit.]とは[Il s'agit de la "Queen Mum".](それはクイーン・マムのことである)の強調構文。
  • 注釈先頭にlà(そこでは)があるのは、少し前にある「ソフィは女王を老婦人と呼んだ」とこの文を区別するため。「あそこでは女王を老婦人と呼んだが、ここでは皇太后をこう呼んでいる」という含みがある。

なぜこの注釈が原本にあるのか。それは、この説明がなければ、ソフィの言葉にある老婦人とはエリザベス二世のことだと、すべての読者が誤解するから。

正しかったらしいソフィの予測

新倉本のP.328に、皇太后がチャールズの再婚を阻んでいるという記述がある。

実は皇太后を除きロイヤルファミリーのほとんどのメンバーはカミラに好意的だった。
二〇〇二年の春に皇太后が逝去し、残されていた精神的な障害が取り除かれた。

2番目の文は原本にない部分なので、原文も同じ意味だと断言することはできない。でも書いた新倉真由美としては、考慮する必要がある文のはず。

実際、チャールズとカミラは皇太后の逝去後、女王の存命中の2005年に結婚した。「女王が世を去ってから再婚」は明らかに実現しなかった。

括弧内の補足説明が不可欠なこともある

先入観のない読者は、いくらソフィの言葉が現実から遠くても、なかなか翻訳者を疑わないだろう。新倉真由美のおかげで、ソフィは王家の一員のくせに状況を何も分かっていないことにされてしまった。

新倉真由美は『Buckingham Palace Au Temps d'Élisabeth II』を翻訳する際、括弧で囲まれた注釈文を基本的に訳さない。全部照合するのは難しいので断言はできないが、ひとつ残らず無視しているのではないかと私は疑っている。原本の一部を省略すること自体は、出版業界でよくあることかも知れない。でも省略のせいで文意が変わるかどうかを検討した様子もなく消されるのは、ほとんどの出版では起こらないと思いたい。

細かい違い

他には文意が大きく変わる個所はないが、1つだけ少し気になるので書いておく。

cavalièrementが新倉本では「気取った」になった。cavalièrementを辞書で引くと「無遠慮に、横柄に」といった意味ばかりで、「気取って」とはとても訳せそうにない。

cavalièrementはcavalier(騎手)から派生した言葉だろう。新倉真由美はcavalierを礼儀正しい騎士だと想像したのかも知れない。でも実際にはcavalierは単なる馬の乗り手を指し、「不作法な」という意味の形容詞にもなる。

なかったことにされたダイアナのマスコミ操作

『バッキンガム』P.296:
ダイアナが生きていた頃の皇太子は、距離があり貴族的でほとんど愛情を感じられなかった。
Meyer-Stabley原本:
Du vivant de Diana (et la princesse manipulait assez bien les médias pour donner cette impression), le prince de Galles était perçu comme un père distant, aristocratique, et guère affectueux.
Telperion訳:
ダイアナの存命中(そして妃はこの印象を与えるために十分うまくメディアを操作していた)、皇太子は身近におらず貴族的でほとんど情愛のない父だと見なされていた。

チャールズ皇太子と息子たちの関係について述べた節より。

事実を伝える言葉と判断を伝える言葉の違い

"le prince de Galles était perçu comme ~」は"皇太子は~であると見なされていた」で、「~」に当たるのが問題の多い父親像。新倉真由美は「であると見なされていた(était perçu comme)」をあたかも単なる「だった(était)」であるかのように訳した。

「~と見なされる」と「~である」は、次の印象を与える言葉。

~と見なされる
  • 筆者はその記述に賛同し、「筆者の他にも多くの人がそう思っている」と読者に思わせたい
  • 筆者はその記述に反対し、「他の人はそう思っているようだが、私はそうではないと思う」とほのめかしたい
~である
  • その記述は反論の余地がない事実
  • 筆者はその記述に絶対の確信を持っている

筆者が記述内容にたとえ賛成でも、反論の余地はないとばかりの強気な記述には問題があるから「~と見なされる」になるのだと思う。多くの賛同者という補強が要るのだ。

新倉真由美にとって、誰かがそう信じたということは確かな事実証明になるらしい。すぐ思いついただけでも、他に次の例がある。

  1. 同じ本で原文の「拒絶したという印象を与えた」を「拒絶した」にした
  2. 『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』で原文の「一夜を共にしたと自慢した」を「一夜を共にした」にした

でも私にとってこういう書き換えは、主張する人の主観を客観的な事実のようにゆがめるもの。自分が「~と見なされている」と書いた文を勝手に「~である」と書き換えられたら、「そんなことは言っていない」と腹が立つ。主観と客観の使い分けは、文章を書く上でとても大事なことだろうに。

チャールズが冷たい父という見解に距離を置く原著者

しかも、Meyer-Stableyが「こういう父親だと見なされていた」と書いた理由は、「でもそれが事実とは限らない」とほのめかすためだということは、Meyer-Stableyが括弧に囲んで補足した「ダイアナはマスコミにそういう印象をうまく与えた」から察しが付く。「印象」とは、「確かなことではない」とMeyer-Stableyが思っているのがあからさまな言葉。見なしているのはマスコミとその信奉者だということも想像できる。

新倉本P.338ではチャールズと長男ウィリアムの仲の良さが書かれており、ダイアナ存命中の1995年夏に親子がギリシャで船旅をしたともある。まだ原本を十分に確認してはいないが、私にはMeyer-Stableyがダイアナ生前でもチャールズを悪い父とは決めていないように思える。

括弧に囲まれた文を一律に無視する弊害

新倉真由美が原本にないダイアナ礼賛を入れているのは確か。でも私は、新倉真由美がダイアナのイメージに不利な原文をわざと握りつぶしたとは思わない。それというのも、新倉真由美は『Buckingham Palace Au Temps d'Élisabeth II』にある括弧に囲まれた言葉を片っ端から無視しているから。訳しきれない量の原文をかかえ、括弧内の文を見ると「訳さなくても影響がない個所が現れた」とばかりに読み飛ばしているとしか思えない。訳さなくてもせめて一読しなければ、本の理解に支障が出ることもあるのに。

職名のからかいが職員や絵画の侮蔑に激化

『バッキンガム』P.108:
女王の絵画保管者や美術品の専門家もいるが、絵画は芸術品ではなく保管者も専門家ではなかった。
Meyer-Stabley原本:
Enfin, on trouve à la fois un conservateur des tableaux de la reine et un expert en œuvres d'art, comme si les tableaux n'étaient pas de œubres d'arts, et comme si un conservateur n'était pas un expert...
Telperion訳:
最後に、女王の絵画保管人と芸術作品専門家が同時にいる。まるで絵画が芸術作品でなく、保管人が専門家でないかのように…。

王室に関わる笑える名前の肩書をいろいろ挙げた段落の最後。

原文が述べる2つの肩書の特性

最後に挙がる肩書は、"un conservateur des tableaux de la reine"(女王の絵画保管人)と"un conservateur des tableaux de la reine"(芸術作品専門家)。これらについてMeyer-Stableyが問題にした点を順に見ていく。

1. 2つの肩書が同時に存在する

これらの肩書は次の文の目的語として現れる。onは不特定の人を指すので、「onが~を見つける」は「~が見つかる」と置き換えてよい。

on trouve à la fois ~ (人々が同時に~を見つける)

「肩書が見つかる」とは肩書が存在するというだけのこと。でも"à la fois"(同時に)には注意してほしい。1つ1つの肩書が単独で変なのではなく、相反する肩書が2つとも存在することが変だとほのめかしていると考えられる。

2. 2つの仮定に基づくように見える

2つの肩書が同時に存在するという状況は、こう論評される。

  • comme si les tableaux n'étaient pas de œubres d'arts, (まるで絵画が芸術作品でないかのように)
  • et comme si un conservateur n'était pas un expert (そして保管人が専門家でないかのように)

"comme si + 時制が直説法半過去の文"は、比喩の表現「まるで~であるかのように」。実際、上の2文では直説法半過去の述語であるétaientとétaitが使われている。英語でいう"as if + 仮定法の文"に相当する。

つまり、Meyer-Stabley自身にとって、"comme si"に続く文、「絵画が芸術作品でない」や「保管人が専門家でない」は事実ではない。でも、2つの肩書が同時に存在するには、これらの前提が必要だと思っている。

2つの肩書が共存するのがおかしい理由

多分Meyer-Stableyが言いたいのは、具体的にはこうだろう。

  1. 絵画は芸術作品に含まれるのに、絵画の担当者と芸術作品の担当者が別にいるのはおかしい。芸術作品の担当者に絵画も扱わせるとか、「絵画」と「工芸」のように重複しない分類にするとか、もっと合理的なやり方があるはず。
  2. どちらの担当者も扱う品の専門家なのに、「保管人」と「専門家」と呼び分けるのはおかしい。どちらも「~保管人」または「~専門家」に統一するほうが合理的。

同じ段落の冒頭でMeyer-Stableyは、名前と実態と合わない肩書を冷やかしている。段落の最後でも、やはり肩書の名前そのものがかもし出すおかしさを語っている。

新倉真由美が原文の"comme si"をないもののように扱ったせいで、新倉本では「絵画が芸術作品でない」や「保管人が専門家でない」が事実になった。「王室所有の絵画に芸術的価値はない」「絵画保管人は素人」とは穏やかでない。新倉本P167-8では、王室が所有する一級の絵画が話題になっているのだが。

嘲笑の対象ではない白鳥担当者

『バッキンガム』P.107-108:
さらに伝記作家も詳細が分からない女王の平底船担当者など明らかに名目だけのボランティアの公務員や、確かに白鳥の世話をしている王室白鳥係も、嘲笑の対象になる。
Meyer-Stabley原本:
Sans compter les fonctionnaires bénévoles auxquels n'incombent que des tâches purement fictives tel le gabarier de la reine, en charge des barges, qu'il faut bien distinguer ― les biographes des rois ne se lassent jamais de détails ! ― du maître des cygnes royaux, lequel, lui, s'occupe effectivement de ses cygnes.
Telperion訳:
さらには、純粋に架空の仕事しか課せられない無報酬の公務員、たとえば平底舟を担当する女王のはしけ荷積み人。これは実際に白鳥に関わる王室白鳥長としっかり区別する必要がある(王の伝記作家は細部に決して飽きない!)。

王室関連の笑える肩書として、職務と名前が合わない肩書がいろいろ挙がった後の続き。今度は名前そのものが仕事と合わない肩書ではなく、勤務実態がない肩書を挙げている。

はしけ荷積み人を説明する語句の構文解析

仕事がない肩書の例としてMeyer-Stableyが挙げたのは"le gabarier de la reine"。ラルース仏語辞典でやっと見つかったgabarierの定義をもとに、安直に「女王のはしけ荷積み人」としてある。この職はまず"en charge des barges"(平底舟を担当する)と書かれる。

私が取り上げたいのはその後に続く説明。文法的には次の3つに分かれる。

1. "le gabarier de la reine"(女王のはしけ荷積み人)を修飾する関係節
qu'il faut bien distinguer du maître des cygnes royaux (王室白鳥長とよく区別する必要がある)

先頭のqu'(queの縮約)は、先行詞が関係節の文の目的語だということを示す。つまり、先行詞である"le gabarier de la reine"は、関係節の文に次の形で入る。

il faut bien distinguer le gabarier de la reine du maître des cygnes royaux. (女王のはしけ荷積み人と王室白鳥長をよく区別する必要がある。)

"distinguer A de B"は「AをBと区別する」。原文中のduは"de le"の縮約形なので、AとBは次のとおり。

区別する一方のものA
le gabarier de la reine (女王のはしけ荷積み人)
区別する他方のものB
le maître des cygnes royaux (王室白鳥長)
2. ダッシュのペアに囲まれた挿入句
les biographes des rois ne se lassent jamais de détails ! (王の伝記作家は決して細部に飽きない!)
  • この文の述語の原形は"se lasser de ~"で、「~に飽きる」。「詳細に飽きない」を「詳細が分からない」とは解釈しようがない。
  • ダッシュのペアは括弧と同じ役割を持つ。ダッシュに囲まれた部分を少しの間無視するほうが、元の文を読解しやすいかも知れない。
3. "le maître des cygnes royaux"(王室白鳥長)を修飾する関係節
lequel, lui, s'occupe effectivement de ses cygnes (実際に白鳥に関わる)

lequelは関係代名詞で、この場合は先行詞が関係節の文の主語であることを示す。つまり、先行詞"le maître des cygnes royaux"は、関係節の文に次の形で入る。

le maître des cygnes royaux, lui, s'occupe effectivement de ses cygnes. (王室白鳥長は実際に白鳥に関わる。)

名前と実態が合った肩書は笑わない

「王の伝記作家は細部に決して飽きない」とMeyer-Stableyが口にしたのは、「はしけ係と白鳥係の違いをつつくなんて細か過ぎ」という読者の突っ込みを予想しているからだろう。ちょっと職名を聞いただけでは、どちらも水辺が舞台の名ばかりの職に聞こえても不思議はないのだから。

でもはしけ係と白鳥係を区別しなければならない事情は確かにある。はしけ係が純粋に架空の仕事である一方、白鳥係は実際に白鳥に関わる。白鳥係は「名前と勤務実態が合わない肩書」に当てはまらないのだから、Meyer-Stableyのやり玉には上がらない。

前の文でMeyer-Stableyが実態と合わない肩書を冷やかしていたと新倉真由美が理解していたら、「確かに白鳥の世話をしている王室白鳥係も、嘲笑の対象になる」と書けるはずがない。それに、ここで「王室白鳥長と区別する必要があるはしけ荷積み人」とあるのに、どちらも同じように扱うのはおかしい。

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

カテゴリ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
タグ

マーゴ・フォンテーン エリック・ブルーン ノートルダム・ド・パリ パトリック・デュポン マリア・トールチーフ ミック・ジャガー 

全記事表示リンク

全ての記事を表示する