伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2014.12.28
南極の海峡に付いたチャールズ皇太子の名
2014.12.26
エリザベス2世の前に女王がいないような言い方
2014.12.24
『バッキンガム宮殿の日常生活』原書購入
2014.12.22
2つのスイートがあるのは東側では?
2014.12.14
庭園の贅沢さは広さにある

南極の海峡に付いたチャールズ皇太子の名

『バッキンガム』P.187:
王室の政令で、南極の海峡とエレファント諸島の海峡の洗礼名がつけられた。
Meyer-Stabley原本:
Un décret royal baptisa enfin de son nom un détroit de l'Antarctique et un bras de mer situé près des îles de l'Élephant.
Telperion訳:
ついには王室の布告によって、南極の海峡とエレファント諸島近くにある海峡に彼の名が付けられた。

チャールズ皇太子の誕生でイギリスがお祭り騒ぎになったときの出来事。

海峡の洗礼名を付けるという謎

新倉真由美の文の意味が私にはよく分からない。私には次の2つしか可能性が浮かばないが、どちらも変過ぎて受け入れられない。

海峡に洗礼名が付けられた
いくらなんでも土地に洗礼名を付けるのはありえない。それにこれではチャールズとの関係がさっぱり分からない。
海峡の名がチャールズに洗礼名として付けられた
洗礼名を海峡に付けるよりはまだありえる。でも、イギリスから遠く離れたへき地の名前を王子に付けるのは奇妙過ぎる。

チャールズの名が海峡に付いた

原文では、"baptiser A de B"(AにBの名を付ける)という語句を使っている。文脈によっては「名を付ける」でなく「洗礼名を付ける」でもいいが、とにかく名前をもらうものと名前の由来を説明している。

上の文に当てはめると、AとBはこうなる。"de B"がAの前に来たのは、AがBに比べてとても長いためで、フランス語ではごく普通の倒置。

A: 名前をもらうもの
un détroit de l'Antarctique et un bras de mer situé près des îles de l'Élephant (南極の海峡とエレファント諸島近くにある海峡)
B: 名前の由来
son nom (彼の名前)

チャールズが生まれたときの出来事を説明している中の一文なのだから、"son nom"はチャールズの名前に違いない。原文にenfin(ついに)とあるのは、海峡命名はチャールズ誕生を祝う出来事のうち最たるものだとMeyer-Stableyが見なしているから。

南極に実在するらしいプリンス・チャールズ海峡

チャールズの名が付いた海峡はあまりにへんぴな場所にあり過ぎて、実在するかどうか確かめるのが大変。しかし英語wikipediaには、何とプリンス・チャールズ海峡のページがある。資料がwikipediaだけというのも心もとない話だが、このページはアメリカ地質調査所(United States Geological Survey)の文書をもとにしているらしい。その説明によると、プリンス・チャールズ海峡は南極のサウス・シェトランド諸島に含まれるエレファント島とコーンウォリス島の間にある。

Meyer-Stableyの説明には不審な点が2つある。

  1. 南極のエレファント島はすでにサウス・シェトランド諸島の1つなので、「エレファント諸島」という言い方はしないはず。現にフランス語wikipediaでも、この島は"Île de l'Éléphant"と呼ばれている。でも原文は"des îles de l'Élephant"であり、島が複数なので、「諸島」と訳さざるを得ない。
  2. Meyer-Stableyは2つの海峡にチャールズの名が付いたような言い方をしているが、「南極の海峡」と「エレファント島近くの海峡」はどうやら同じものらしい。

エリザベス2世の前に女王がいないような言い方

『バッキンガム』P.187:
チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージは二つのタイトルを持ってこの世に生まれた。ジョージ六世は、国王の男児だけが王位を継承できるという勅令を、権限を利用してエリザベス誕生の五日前に改定した。
Meyer-Stabley原本:
Charles Philippe Arthur George vint au monde avec deux titres : George VI avait amendé cinq jours plus tôt à son profit un édit qui voulait que seuls les fils du souverain pussent naître altesse royale et prince.
Telperion訳:
チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージは2つの称号を持って誕生した。ジョージ6世は彼のために5日前、君主の息子だけが生まれながらに殿下ならびに王子となれるという勅令を改訂していた。

チャールズ皇太子の誕生について。ジョージ6世はエリザベス2世の父にして先代の国王。

20世紀にあるはずがない男子限定継承の勅令

「国王の男児だけが王位を継承できる」という勅令がかつてあったとしても、ジョージ6世の時代に存続していたはずがない。エリザベス2世の前にすでに何人もの女王がいたことは、英国史を少しばかり知っていれば分かること。この本でもヴィクトリア女王がひんぱんに話題になるし、メアリー1世やエリザベス1世やアン女王の名もある。新倉真由美の英国史では、これらの女王は非合法な存在だったのか?

原文からすぐ分かること

エリザベスの話題はない

原文は単に"cinq jours plus tôt"(5日前)であり、「エリザベス誕生」という語句はどこにもない。チャールズ誕生の文の後に「5日前」が続くのだから、チャールズ誕生の5日前と見なすべき。

王位継承については書かれていない

勅令で定められたのは、"seuls les fils du souverain pussent naître altesse royale et prince"(君主の息子だけが生まれつき殿下および王子になれる)。これは王位継承とは関係がない話。君主の娘が王子でないのは当たり前で、王位継承権を認められているかどうかを問わない。

権限を利用したのではない

新倉真由美の文にある「権限を利用して」は、どうやら"à son profit"に対応するらしい。しかしprofitは「利益」であり、権限という意味はない。そして"à son profit"は、「彼(または彼女、それ)のために」というイディオム。本来は"à profit de ~(名詞)"という形だが、deに続くべき名詞が三人称単数の代名詞のため、"de 名詞"でなく所有代名詞sonになった。

sonは文脈に応じて「彼の」「彼女の」「それの」のいずれかになる。ここでは「彼の」、つまりチャールズかジョージ6世自身のどちらかだろう。それについては後で考える。

さらに踏み込んだ理解

チャールズの称号とは殿下と王子

「2つの称号を持って生まれた」の後にコロンが続いている。これは、コロン直前にある"deux titres"(2つの称号)が、コロンの後で具体的に説明されるということを示している。だから、コロンの後の文に称号が挙げられていると期待してよい。

ここで、最初の文の「2つの称号を持って生まれる」と2番目の文の「生まれつき殿下および王子になれる」が似通っていることに注意してほしい。つまり2つの称号とは、殿下と王子なのだろう。英語にすると、"Royal Highness"とPrince。

国王の孫が称号を持って生まれた

国王ジョージ6世が生きているのだから、チャールズを生んだときのエリザベスはまだ王女。君主の息子でなく孫であるチャールズは、「君主の息子だけが殿下ならびに王子として生まれることができる」に当てはまらない。なのにチャールズは生まれたとき、すでに称号を持っていた。

その理由は勅令改訂以外に考えられない。「君主の息子だけ」が、「君主または第一王位継承者の息子だけ」などという、チャールズを含む指定に変わったのだろう。

勅令を変えたのはチャールズのため

ジョージ6世が勅令を変えたのは「~のために」とあるが、これは「チャールズのために」と解釈すれば筋が通る。エリザベスの次の国王になりそうな孫に、称号を早手回しにプレゼントしたのだろう。

他に引っ掛かるいろいろな点

「エリザベス誕生前まであった男子限定王位継承の規定」ほどのインパクトはないが、新倉真由美の文を読んで「いったい何なんだ」と疑問を感じる個所はいくつかある。

2つのタイトルとは何?

「二つのタイトルを持って」を読むと、何という称号なのか、好奇心をそそられる。しかしそれが新倉本で明かされることはない。消化不良な気分。

唐突なエリザベス誕生の話題

ジョージ6世にからめて名が出るエリザベスとはもちろん、後のエリザベス2世しか考えられない。でもエリザベスが出産した話をしているときに、なぜいきなりエリザベスの誕生が話題になるのか?

エリザベス誕生時のジョージ6世は国王でない

エリザベスが生まれたとき、ジョージ6世は当時の国王ジョージ5世の次男で、未来の国王とは思われていなかった。王位継承にかかわる重大な決定を下せたとは思えない。

あるいは、ジョージ6世はジョージ5世の印刷ミスだと解釈できるかも知れない。でも、ジョージ6世の即位に現実味がなかった当時、エリザベスのために勅令を改訂する必要があるとは思われなかったろう。

エリザベス2世の人生はこの本の主な題材の1つ。この本を訳していれば、エリザベス誕生時のジョージ6世の状況は自然と頭に入りそうなもの。

『バッキンガム宮殿の日常生活』原書購入

序文と第1章だけの照合の限界

私は以前「『バッキンガム』照合範囲の狭さによる思い残し」で、新倉真由美がまたしても誰かへの悪口を誇張したという疑念を書きました。そこを確認しようとしたら、後のほうの章をいくつも読まなければならないと分かっていても、その疑念を忘れ去ることはできませんでした。いくら私が英国王室に興味がないといっても、ヌレエフのようにおとしめられた実在の人物がまだいるなら、あまりに気の毒というもの。第1章の照合だけで、すでに新倉真由美の語学力のなさとやっつけ仕事は明らかですが、それだけでは『バッキンガム』の問題を十分に調べたと思えません。

原書到着とタイトル判明

こうして、ついに原書を注文しました。『Noureev』の3倍くらいの値段なので、仏アマゾンで中古を購入。10日後に届きました。

アマゾンでのタイトルは『La Vie Quotidienne à Buckingham Palace sous Élisabeth II』ですが、届いた本のタイトルは『Buckingham Palace Au Temps d'Élisabeth II』。新倉本で原書名が『Buckingham Palace Au Temps d'Élisabeth II』だという謎がやっと解けました。当初は長いタイトルだったのかも知れませんが、今後は原題を出す必要がある場合は短いタイトルを使います。

取り掛かりたい分野

こんなに長大な原書に『Noureev』や『Le Temps liés avec Noureev』のように目を通すのは、辞書を引かない簡易チェックでもまず無理です。一応日本語の新倉本すら、読みとおすのは大変です。ある程度、範囲を限る必要があります。

批判的な言葉

かつて『Noureev』との照合を始めたころ、「ヌレエフが悪く書かれている個所はすかさずチェック」は、とても効果的な絞り込み手段でした。今回も「誰かが不当に悪く書かれているのでは」と疑っている以上、批判的な文は確認します。原本でも同じ内容であることは恐らく多いでしょうが。やり玉にあがるのはもちろん王族でしょう。エリザベス女王はあちこちで書かれ過ぎて追跡困難ですが、親族の章がいくつかあります。宮殿の日常や財産などの章より優先することになるでしょう。

意味不明な文、ありえそうにない文

原書を注文してから届くまでの間、ちらちらと『バッキンガム』の他の章をのぞくと、「これは原文を読まなければ」と思う個所がわらわらと出てきました。かすかな違和感でも調べずにおくべきでないというのが、今まで新倉真由美の文を読んできた教訓ですから。興味のない章まで積極的に探しに行く気はまだありませんが、ページをめくっている最中に遭遇したら、どの分野だろうと放ってはおけないでしょう。

照合できない部分の存在

新倉本によると、『バッキンガム』には邦訳出版のためにMeyer-Stableyが新たに書き下ろした部分があるそうです。そうでしょうとも。邦訳本の表紙は邦訳出版と同じ2011年に挙式したウィリアム王子とキャサリン・ミドルトンだというのに、2002年出版の原書にミス・ミドルトンの名はありそうにないのですから。

加筆部分の新倉訳を読んで私が無性に原文を読みたくなっても、その願いはかないません。フラストレーションをためたくないので、加筆部分は読まずにすませたいものです。チャールズ皇太子の再婚とか、ウィリアム王子の結婚とか、2002年より後の出来事の記述には近づかないようにしなければ。

ヌレエフ本への思い残し

本当は、『バッキンガム宮殿の日常生活』にはあまり深入りしないべきだと思っていました。『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』や『ヌレエフとの密なる時』にも、まだ書きたいことは残っていますし、大きな誤訳をさらに見つけられればうれしいですから。

でも今の『バッキンガム』は、「私の論理に十分な説得力はあるだろうか」「取り上げるには細か過ぎるだろうか」と迷わずにすむ派手な個所がそこかしこに見つかります。ヌレエフ本2冊の原書購入当初が思い出されます。だから楽なほうについ流れてしまいます。でもいずれは一段落するでしょう。ヌレエフ本2冊と同様、『バッキンガム』にも私の手におえない個所はたくさんあるはずですから。

2つのスイートがあるのは東側では?

前置き

以前、記事「ステート・ルームを住居と呼ぶことの是非」で次の文を引用したとき、「新倉訳には言いたいことがあるので、別記事に書ければそうします」と書きました。でも残念ながら「ボツ箱」カテゴリ。納得が行く記事を書けなくても、さんざん頭を絞った課題なので、書かないとすっきりしません。

取り上げる引用文

『バッキンガム』P.52:
西側の居住区域の一番奥には二間続きのスイートルームがある。
Meyer-Stabley原本:
Pour finir, deux suites en enfilade complètent les grands appartements de la façade ouest.
Telperion訳:
最後に、一連のスイート2部屋が西正面の威厳ある数々の間を補完する。

バッキンガム宮殿2階の最後の説明文。直前では東側のバルコニーの間について説明していた。そしてこの後は段落が代わり、宮殿3階の説明が始まる。

注 - 実は居住区域でない宮殿西側

最初に、宮殿2階の西正面にある、新倉本でいう「居住区域」、原文だと"les grands appartements"と呼ばれる区域について説明しておく。

新倉本P.38にある宮殿2階の見取り図を見ると、2階の西にあるのはステート・ルームと呼ばれる宮殿きっての豪華な客間の数々だと分かる。写真で見る限りでは客の応対専用で、とても「居住区域」と呼べる部屋ではない。でも、フランス語のappartementがステート・ルームを指すことは滅多になさそうなので(先ほどの記事を参照)、「居住区域」を誤訳扱いするのはやめておく。ここでは、「西側の居住区域」がステート・ルームの区域だと把握しておけば十分。

未説明のスイート2部屋が西側に入る余地はない

部屋の位置関係を見るために、新倉本の見取り図の東西部分を写したのが下の図。図のスケールは滅茶苦茶だが、部屋の名前と順番は合っている。東西南北の方角は私が追記。南北の部屋は今回取り上げないので省略した。

バッキンガム宮殿2階の東西

さて、原文を直訳すると、「最後に、連なった2つのスイートが西正面の大きなアパルトマンを補完する」といった形になる。「最後にスイートがアパルトマンを補完する」を「アパルトマンの一番奥にスイートがある」という意味だと捉えるのはおかしくない。しかし、見取り図と見比べると、2つのスイートルームが収まるべき「西側の居住区域の一番奥」が見当たらない。

  • 「~の間」「~の客間」と呼ばれる部屋のほとんどは、もう説明されている。どれも大きな一部屋であり、スイートではない。
  • 説明がない「衛兵室」と「控えの間」、そして見取り図に載っていない部屋では、「ステート・ルームを補完する」という表現に合わない。このスイートはステート・ルームに比べてあまり見劣りしない規模のはず。

東側にある未説明のスイート

それでは2つのスイートはどこにあるのか。ここで、引用文の直前で東側の中央にあるバルコニーの間を説明していたことを思い出す。そう、南北や西と違い、東は今までほとんど説明がなかった。そこで東側を見取り図で見ると、まだ説明していない部屋が2つある。「青と黄の続き部屋」と「象眼の続き部屋」。「続き部屋」、つまりスイート。それにかなり広そうなので、「西側のステート・ルームを補完する」という表現にあう。西のステートルーム、東の続き部屋が合わさることで、宮殿2階の豪華さが完全なものになると、Meyer-Stableyは言いたいのだろう。

「西側の一番奥」と「一続きのスイート」という現況との違い

「スイートは西でなく東のもの」という私の解釈には、問題点が一つある。バルコニーの間を挟んだ2つの続き部屋は、一続き(en enfilade)でないということ。「西側の奥にスイートはない」という問題を避けようとしたのに、「東側のスイートは隣接していない」という問題が出てきてしまった。だから、私の解釈のほうが妥当とは言いにくい。

本音を言えば、"en enfilade"はMeyer-Stableyのミスではないかと疑っている。でも「これは原著者の間違い」は自分の誤訳をもみ消せる過激な手段なので、気安くは使えない。今回はこの手を使えるほどの材料がそろっていない。

庭園の贅沢さは広さにある

『バッキンガム』P.53:
それは、ロンドンの中心にある、贅を尽くした約二〇ヘクタールの巨大な私有公園とも言える。
Meyer-Stabley原本:
Il s'agit somme tout d'un très grand parc privé sur presque vingt hectares – ce qui constitue déjà un grand luxe en plein cœur de Londres.
Telperion訳:
要するに、20ヘクタール近い、非常に大きな私有公園である。ロンドンの真ん中では、このことはすでに非常な贅沢となる。

バッキンガム宮殿の庭園について。直前の文の趣旨は、「バッキンガム宮殿の庭園は、王家の庭園のうち最も壮麗な構成ではない」という趣旨。新倉本では「バッキンガム宮殿より壮麗な王家の庭園は他に存在する」という意味が抜け落ちたため、私は記事「最高級の庭園と比べた上での少しの失望」で取り上げた。

前の文を論評する構文

原文のダッシュ後の直訳は、「ロンドンの真ん中ですでに非常な贅沢となること」。「~であること」の原文は"Ce ~(関係詞)"という形をしている。

フランス語である文の後に「~であること」(Ce + 関係詞)が続く場合、「前の文の内容は~なことである」という意味になる。ここでの文に当てはめると、「非常に大きな私有公園である。ロンドンの真ん中ですでに非常な贅沢となること」は、「非常に大きな私有公園だということは、ロンドンの真ん中ですでに非常な贅沢となることである」と言い換えられる。

「Ce + 関係詞」を用いて前の文の内容を論評するという用法は、仏和辞書でceを引くと載っている。私の『プログレッシブ仏和辞典 第2版』では、「II «関係代名詞の先行詞として»」の下の「2«前の文全体を受けて»そのこと、その点」という形で説明してある。

庭園のデザインをあまりほめない前の文からのつながり

デザインの代わりに広さをほめたMeyer-Stabley

Meyer-Stableyが宮殿の庭の贅沢な点として挙げているのは、立地と広さ。Meyer-Stableyが庭園内部の造りをあまり買っていないことは、前の文から分かる。でも「ロンドンの真ん中にこんなに広い庭園を持つということ自体が贅沢なのだ」という論理で、Meyer-Stableyは庭園が贅沢だと認めている。

一転してデザインをほめたような新倉真由美

新倉真由美の「贅を尽くした約二〇ヘクタールの巨大な私有公園」だと、公園内部にさまざまな豪華なデザインが詰め込まれているという印象を持つ。「贅を尽くす」とは創意工夫や創作努力をつぎ込んだものに似合うからだろう。しかし土地が広いこと自体は工夫とは無関係なので、「贅を尽くす」という表現に合わない。このため、新倉真由美の文では、土地の広さは贅沢だと言われていないように受け取れる。

新倉本でも、直前の文は「宮殿のいくつかの庭園には見事なデザインが見当たらない」であり、やはりデザインをあまりほめていない。その直後に「贅を尽くした」が続くのは、気が変わったかのようで、私には奇妙に感じられる。もっとも、金をつぎ込んだわりには冴えないデザインという解釈もできるので、「この訳文はありえない」というほどではないが。

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プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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