伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2014.10.11
記念植樹あれこれ
2014.10.07
廊下の家具の様子が召使の境遇に
2014.10.04
25年前の宮殿庭師頭を現役として紹介した原本

記念植樹あれこれ

『バッキンガム』P.55:
記念日を祝して植樹されることもあり、一九六一年にはインドのマロニエ通りができた。一九三五年一二月一二日にはメアリー王妃がアエスキュル・インディカを植え、同年ジョージ六世が即位した。チャールズとアンの誕生記念には樫の木を植えた。
Meyer-Stabley原本:
Certains arbres ont été plantés à l'occasion de célébrations d'anniversaires, tel cet Aesculus Indica mis en terre par la reine Mary le 12 décembre 1935 ; George VI fit de même l'année de son couronnement et deux chênes datent respectivement des naissances de Charles et d'Anne.
Telperion訳:
記念日を祝う機会に植えられた木もある。たとえば1935年12月12日にメアリー王妃が土に植えた、このアエスクルス・インディカだ。ジョージ6世は戴冠の年に同じことをし、2本のオークはそれぞれチャールズとアンの誕生に由来する。

インド・マロニエの並木道は記念植樹の例ではない

上の引用には、新倉本の「一九六一年にはインドのマロニエ通りができた。」に相当する原文がない。実は、対応する原文は引用の直前の文に含まれている次の語句。

Meyer-Stabley原本:
une avenue de marronniers d'Inde - les arbres rois du parc -, créée en 1961
Telperion訳:
1961年に造られた、庭園の木の王者たるインド・マロニエの並木道

記念植樹についてはこの文で初めて触れられ、最初の例となるのがメアリー王妃の植樹。前の文に書かれたインド・マロニエ通りが割り込んで、さも記念植樹で生まれたように書かれるのはおかしい。

インド・マロニエの並木道とメアリー王妃の植樹を結ぶ木

ただし、インド・マロニエ通りは記念植樹ではなくても、この文と無関係ではない。メアリー王妃が植えたのは「このアエスクルス・インディカ」(cet Aesculus Indica)。「この」が付いていることから、その前に書かれたインド・マロニエの並木道のものだと見当が付く。植樹の年が違うのだから、同じ木ではありえない。並木道の木である"marronnier d'Inde"の学名がAesculus Indicaなのだろう。実際、フランス語wikipediaの"Marronnier de l'Himalaya"の項では、"marronnier d'Inde"が"Marronnier de l'Himalaya"の別名、"Marronnier de l'Himalaya"の学名がAesculus indicaだとしている。

ジョージ6世の戴冠は文の主題ではない

構文解析

ジョージ6世に関する文は次のとおり。

George VI fit de même l'année de son couronnement

主語は言うまでもなく"George VI"。述部は次のように分けられる。

fit
動詞faire(する)の直説法単純過去「した」
de même
「同じように」という意味のイディオム
l'année de son couronnement
彼の戴冠の年

「同じようにした」とは、前の文にあるメアリー王妃の植樹を指している。つまりジョージ6世も植樹した。木の品種も同じだったのだろうと私は想像している。

どうやら新倉真由美は、"de même l'année"を「同年」と解釈したらしい。しかしこれだと、「形容詞même + 冠詞 l' + 名詞année」という並びになる。名詞を修飾する形容詞が、同じ名詞に付く冠詞の前に来ることはありえない。

新倉真由美の文の不自然さ

  1. 第1章の宮殿案内は小見出しでいくつかの部分に分かれているが、この文があるのは庭園を説明する部分。庭園の説明の中でさらに記念植樹に絞っている部分に、「ジョージ六世が即位した」は場違い。
  2. 1935年はジョージ6世の父ジョージ5世の治世。『バッキンガム』巻末P.365のエリザベスII世略歴からもそのことは分かる。「ジョージ6世が同年即位」はありえない。

チャールズとアンの記念樹を植えた人物は記載なし

チャールズとアンの誕生記念樹についての原文は次のとおり。

deux chênes datent respectivement des naissances de Charles et d'Anne
  1. 主語は"deux chênes"(2本のオーク)。
  2. 述語はdatentで、"dater de ~"(~から始まる、~にさかのぼる)という表現の一部。
  3. "datent de"に続くのは"les naissances de Charles et d'Anne"(チャールズとアンの誕生)。原文のdesは"de les"の縮約形。

ジョージ6世の文とet(そして)で結ばれてはいるが、2つの文は完全に独立している。チャールズとアンの誕生記念樹を植えた人物は書かれておらず、ジョージ6世とは限らない。

廊下の家具の様子が召使の境遇に

『バッキンガム』P.48:
膨大な蔵書が収められている図書室や、莫大な量の洋服がかけられたマホガニー製のドレッサーの整理には果てしなく時間を取られ、広い廊下の暗い煉獄に放置され、罰を受けたかのように見えた」
Meyer-Stabley原本:
Des bibliothèques bourrées d'énormes volumes, des dressoirs d'acajou dont le dessus de marbre supportait d'énormes pendules égrenant les heures interminable s'étaient vus condamnés à meubler le sombre purgatoire de ce grand couloir. »
Telperion訳:
膨大な蔵書がぎっしり詰まった本棚、果てしない時を一つずつ打つ巨大な振り子を支える大理石が上部にあるマホガニーの飾り戸棚が、この大廊下の陰気な煉獄に据え付けられるのを強いられていた。

ジョージ6世の侍従でマーガレット王女の恋人だったピーター・タウンゼントによる廊下の回想。少し前に言及されている主廊下のことと思われる。

構文解析

上の私の訳はだいたい直訳。細部の説明のために、原文を少し細かく分ける。

主語1
Des bibliothèques bourrées d'énormes volumes, (膨大な蔵書がぎっしり詰まった本棚)
主語2
des dressoirs d'acajou (マホガニーの飾り戸棚)
dressoirは食器を飾るための棚。
飾り戸棚を修飾する関係節
dont le dessus de marbre supportait d'énormes pendules (その上部は巨大な振り子を支えていた)
  • 関係代名詞がdontなので、関係節の文の主語"le dessus de marbre"(大理石の上部)は先行詞である飾り戸棚のものだと分かる。
  • penduleは女性名詞「振り子時計」か男性名詞「振り子」のどちらなのか、私には確信が持てない。でも廊下に振り子時計があるのは確実。
pendulesを修飾する現在分詞
égrenant les heures interminable (果てしない時を打つ)
ラルース仏語辞典に、heures(時間)が目的語の場合のégrenerの意味が載っていた。
Faire entendre des sons un à un et de façon détachée : Pendule qui égrène les heures.
音を1つずつ離して聞かせる: 時を打つ振り子時計。
仏和辞書でégrenerの他の意味を見ても、「取られる」という解釈は無理。
述語
s'étaient vus (~されていた)
代名動詞"se voir"の受動態に過去分詞が続いている。直訳すると「(過去分詞が示す状態の)自分を見る」だが、「(過去分詞が示す状態に)される」と言い換えて構わない。
状態を説明する過去分詞
condamnés à meubler le sombre purgatoire de ce grand couloir (この大廊下の陰気な煉獄に据え付けられるのを強いられた)
  • condamnéの意味として仏和辞書の最初に来るのは「有罪を宣告された」だが、転じて「強いられた」という意味にもなる。主語である本棚や戸棚の状態を指すのだから、「強いられた」でいいだろう。
  • 最も重要な動詞はmeubler。物が主語の場合の意味は、「部屋に備わる」「~に似合う」など。

この文を主部と述部に分けるとこうなる。

主部
上の一覧の最初の4項を合わせた部分
述部
上の一覧の最後の2項を合わせた部分

主部がとても長大。しかし多くの修飾を省くと、本来の主語は"Des bibliothèques"(本棚)と"des dressoirs"(飾り戸棚)だと分かる。

新倉真由美の訳の問題

新倉真由美の文で一番の飛躍に見えるのは、廊下の家具について説明している原文が、廊下で働く人間の待遇に化けたこと。原文には人を指す普通名詞や代名詞は見つからないのに。condamnésのメジャーな意味の1つが「有罪を宣告された」だから、主語は人だと思い込んだのだろうか。

後は、語句レベルの誤訳をいくつか取り上げる。

図書室(正しくは書棚)
bibliothèqueの意味の1つが「図書室」なのは確か。しかしこの文のbibliothèqueは廊下を飾り付けるものなので、部屋ではありそうにない。
ドレッサー(正しくは飾り戸棚)
dressoirのスペルはドレッサーを連想させる。でも辞書を引けば、洋服の収納には使いそうもない棚だと分かる。
洋服(正しくは振り子または振り子時計)
pendulesはとても「洋服」と訳せる単語ではないが、「ドレッサー」からの連想だけで洋服にされたのだろう。
整理
「整理」という意味の単語、または「整理」という意味だと誤解されそうな単語が原文に見つからない。「果てしなく時間を取られ」と「ドレッサー」を結びつけるために新倉真由美が創作したのかも知れない。

25年前の宮殿庭師頭を現役として紹介した原本

『バッキンガム宮殿の日常生活』の原本『La vie quotidienne à Buckingham Palace sous Elisabeth II』にあるおかしい記述は、メンデルスゾーンとオルガンの他にもありました。知識がない私が英国王室本の間違いを見つけるのはほぼ不可能なのですが、運というのはあなどれません。実は、見る人が見れば『Buckingham』も間違いが目立つ本なのでしょうか。

原本の記述

問題の文は次のとおり。

Meyer-Stabley原本:
Fred Nutbeam en est actuellement le jardinier en chef :
『バッキンガム』P.54:
現在の庭師のチーフはフレッド・ナッツビーンである。

多分Nutbeamはナットビームと表記するほうが普通だと思うので、私はナットビームと呼びます。私がこの記事を書くに至った最初のきっかけは、新倉真由美の固有名詞表記が変なせいで、Fred Nutbeamの名前に興味を引かれたことでした。

ここで重要なのはactuallement(現時点では)。Meyer-Stableyはこの後、女王がナットビームとおしゃべりする様子も現在形で書いています。原本の出版は2002年。

原本に反する資料

1978年5月18日付「Lawrence Journal-World」紙の10ページ、記事「Royal Gardener in final Season」より
Fred Nutbeam, head gardener to Queen Elizabeth at Buckingham Palace for more than 24 years, is hanging up his royal gardening tools for the last time.
バッキンガム宮殿で24年以上にわたり女王の庭師頭だったフレッド・ナットビームは王室の園芸道具を最後に壁に掛けようとしている。
2012年5月25日付「The Lady」誌で映像「The Queen’s Garden」を紹介する記事より
The film, made in 1976,
the Queen chats with head gardener Fred Nutbeam,
1976年の映像にナットビームが宮殿の庭師頭として女王とともにいます。
2006年4月20日「The Evening Standard」紙の記事要約より
Fred Nutbeam, who was head gardener at Buckingham Palace for 25 years.
Nutbeam, who died in 1997,
庭師頭として25年勤め、1997年に死去。

1978年に職を退き、1997年に死去した人物が、2002年出版の『Buckingham』で現役扱いだと知った時には、あっけに取られました。単なる出版当時の庭師頭ならまだしも、長年の名物庭師だったらしい人の活動年代を20年以上も間違えるなんて。

バッキンガムの名がタイトルに含まれる本をMeyer-Stableyが出したのは、2002年が初めてではありません。

1991年出版『La vie quotidienne à Buckingham de Victoria à Élisabeth II』
英国アマゾンで取扱対象です。
1986年出版『Buckingham Story』
『Buckingham』記載のMeyer-Stabley著作一覧にあるのを英アマゾンのなか見!検索(Look inside)で読めます。

『Buckingham』では古い本の文がかなり流用されているのかも知れません。でも流用前に現在も使える文かを確かめるくらいはしても当然ですね。

英国王室は専門分野のはずなのに

たかだか数個の間違いを見つけただけで私がやたらと反応するのは、氷山の一角を疑うせいのほかに、Meyer-Stableyが英国王室をネタに何冊も本を書いているせいでもあります。英アマゾンや仏アマゾンで検索した限りでは、2002年の『Buckingham』出版当時、すでにMeyer-Stableyはマーガレット王女、マウントバッテン卿夫人、ウィンザー公爵夫人を題材にした本を出しています。普段縁がない分野の『Noureev』と、散々飯のタネにしている分野の『Buckingham』では、間違いを見つけたときにMeyer-Stableyの著作全般に抱く不信感の程度が違います。

『バッキンガム』の訳者あとがきでも、新倉真由美は原本を褒めてみせています。

ジャーナリストであり、ロイヤルファミリーとも親交のあるスタブレ氏の情報量は膨大であり、イギリス王室の歴史的背景、バッキンガム宮殿の様子、王室の機構、ロイヤルファミリーの公人としての務めからプライベートな生活に至るまで、さまざまな視点で詳細にわたって記述されています。

でも、手を広げ過ぎて考証が雑になっては役に立ちません。『Noureev』のみならず『Buckingham』でも、Meyer-Stabley本を「ジャーナリストが記述する膨大な事実」と信頼するのは危険そうです。

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プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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