伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2013.12.26
ワガノワ時代の苦労は小さくはない
2013.12.19
ソ連警察の敵意を原著者の見解と混同
2013.12.16
バリシニコフによる弔辞は素直に訳せば十分なのに
2013.12.13
メーク中は「若者と死」の撮影対象外
2013.12.09
ダンサーが競馬騎手の体に憧れるとは

ワガノワ時代の苦労は小さくはない

『ヌレエフ』P.50:
私は苦痛の限界にいたわけではありません
Meyer-Stabley原本:
Je n'étais pas au bout de mes peines,
Telperion訳:
私の苦痛には終わりがなかった。

ヌレエフがワガノワ・アカデミーで周囲に反発されたことを述懐する自伝の引用の始まり。

boutは「端、果て」という意味で、それを使ったイディオム"au bout de ~"は「~の果てに、~の終わりに」。これを当てはめるとヌレエフの言葉の直訳は「私は私の苦労の終わりにはいなかった」となる。つまり「苦労の連続だった」。実際、引用部分ではヌレエフが反感を買い始めたことを丁寧に語っており、その中に「あんなのは大した苦労ではない」という文が入っていてはしっくりしない。

au bout deの用例

新倉真由美は「終わり」を「限界」に読み替えているように見える。しかし残念ながら、辞書の用例を見る限り、"au bout de ~"は「~の限界に」でなくあくまで「~の終わりに」として使われている。ためしに『プログレッシブ仏和辞典第2版』から用例を抜粋してみる。

  • arriver au bout d'un travail
    仕事をやり終える(Telperion注: 直訳は「仕事の終わりに達する」)
  • Il n'est pas au bout de ses peines.
    彼はまだ難渋している
  • au bout d'un certain temps
    しばらくたって(Telperion注: 直訳は「ある時間の終わりに」)

ここでの第2項で今回と同じ表現が出ている。なお、この表現は有志が作成した辞書サイトWiktionnaireにイディオムとして載っている。

ne pas être au bout de ses peines
Ne pas avoir fini de rencontrer des obstacles, d'éprouver des contrariétés, des chagrins.
障害に遭遇し、困難や嘆きを感じることが終わっていない(Telperion訳)

ソ連警察の敵意を原著者の見解と混同

『ヌレエフ』P.69:
しかし公演のたびにヌレエフと外国人たちとの深い交友関係を記録している警察にエスコートされるのを渋々認めなければならなかった。
Meyer-Stabley原本:
Mais chaque fois qu'il se rend à l'une ces représentations, il constate qu'il est escorté de policiers qui enregistrent « toutes ces amitiés anormales que Noureev entretient avec des étrangers ».
Telperion訳:
だがこのような公演の一つに行くたびに、「ヌレエフが外国人との間で交わすこの異常な友好関係のすべて」を記録する警官に自分が護衛されていることに気づいた。

キーロフ時代のヌレエフと警察のあつれき。外国のバレエ団が公演に来るたびにヌレエフはダンサーと接触していた。

原著者が描写したのは当時の警察の心境

警察が監視していたというヌレエフと外国人の"amitiés anormales"(異常な友好)について、次の点に注意がいく。

  1. 「異常」とはずいぶんな言われよう。ヌレエフがソ連当局に抑圧されるのを同情的に書いているMeyer-Stableyが、ヌレエフと外国人の接触を本気でそう思うとは信じがたい。
  2. 警察の記録対象は括弧«と»に囲まれており、"amitiés anormales"はその一部。語句を括弧で囲むことで、その語句に著者が別な意味を込めるのは、日本語でもよくある。

この2点を考えると、「異常な友好」とは警官たちなどのソ連当局による見解であり、Meyer-Stabley自身の意見ではないと推測できる。「当時の警察にとっては異常行為だったのだ、嘆かわしい」というのがMeyer-Stableyの言いたいことなのだろう。

単なる事実の記述にしか見えない新倉訳

ところが対応する新倉訳には、警察がヌレエフに抱いていたに違いない不快感がまったく現れない。

好意的な形容に一転

"amitiés anormales"の新倉真由美訳は「深い交友関係」。いかにもMeyer-Stableyが客観的描写として普通に使いそうな言葉になっている。

anormalは英語のabnormalに当たるありふれた単語。仮にも仏文科卒の新倉真由美が本気で「深い」と勘違いするとは信じがたい。「anormalという形容はヌレエフの交友を描くのにふさわしくないから添削してやろう」と意図的に捻じ曲げたのではないかという、嫌な想像をしてしまう。

意味ありげな括弧が消失

新倉訳からは、警察の記録対象を囲む括弧が抜けている。これではどう見ても単なる叙述で、Meyer-Stableyがほのめかす異議を感じ取りようがない。

Meyer-Stableyが使う括弧を新倉真由美がろくに見ない例はいくつもある。目立つのはこのあたり。

本当に深い交友関係だったか疑わしい

新倉本だと、ヌレエフと外人芸術家の間に深い交友関係があったというのは客観的な事実に見える。しかし「深い交流関係」は原文から離れているのみならず、大げさすぎて実情に合わないと思う。

  • 『ヌレエフ』でこの周囲を読んでも、ソ連に来た芸術家が出国した後まで交流が続いたというエピソードはない。交流はその場限りの出来事だったように読める。
  • 『ヌレエフとの密なる時』によると、プティはウィーンでヌレエフと初めて会ったが、その後はヌレエフの亡命が報道されるまで、すっかりヌレエフを忘れていた。

多分エスコートとは尾行の婉曲表現

新倉真由美が「渋々認めなければならなかった」と訳した動詞constaterは、仏和辞書によると「~を確認する、~に気づく」といった意味。新倉訳はずいぶん原意から離れていると思う。

新倉真由美は警官が文字通りにヌレエフをエスコートしている、つまりヌレエフのそばに控えて警備しているのを想像したのではないだろうか。原文を尊重して「エスコートされるのを確認した」と訳すと、ヌレエフが警官の同伴を認めているようになる。ヌレエフが実際にやりそうにないので、自分が納得いくような文に「添削」したと私は想像している。

しかし私の考えでは、「警察に護衛される」とは尾行のこと。「エスコートされているのを確認する」とは、尾行警官の姿に気づくことなのだろう。だから私は、辞書にあるconstaterの意味も、Meyer-Stableyがその言葉を選んだのが妥当なのも、少しも疑っていない。

2014/1/20
「訳文が現実を反映しているかの疑わしさ」を独立、リンクした記事の説明を追記
2016/5/13
文のグループ分けを見直し

バリシニコフによる弔辞は素直に訳せば十分なのに

『ヌレエフ』巻頭:
彼は、朴訥で天涯孤独な男性である一方偶像として、カリスマ性と近づきがたい尊大さを持ち合わせていた。
Meyer-Stabley原本:
Il avait le charisme et la simplicité d'un homme de la terre, et l'arrogance intouchable des dieux.
Telperion訳:
彼は地上の人間のカリスマと単純さ、そして神々の触れるべからざる傲慢さを備えていました。

バリシニコフが寄せた弔辞。『Noureev: The Life』(Julie Kavanagh著)のペーパーバックP.696によると、ヌレエフの葬儀のとき文化大臣ジャック・ラングが朗読したという。

原文の構成はきわめて単純

原文は主語+述語+目的語という、きわめて単純な構成の文。目的語は次の2つ。

  • le charisme et la simplicité d'un homme de la terre (地上の人間のカリスマと単純さ)
  • l'arrogance intouchable des dieux (神々の触れることができない傲慢さ)

ちなみに、先に書いたKavanagh本には、この言葉が英語で載っている。バリシニコフはフランスよりアメリカとの縁が深いので、バリシニコフ本人が語ったのは英語版なのだろう。フランス語を知らなくても原文の単純さを実感しやすくするため、こちらも引用する。

He had the charisma and the simplicity of a man of the earth and the untouchable arrogance of the gods.

原文からあちこちずれた新倉訳

新倉真由美は原文にないことを訳文にずいぶん盛り込んでいる。

  • 「天涯孤独」に当たる単語は原文にない。まさか"de la terre"(地上の)を「天涯孤独な」と訳したのだろうか。
  • 「偶像」に当たる単語idoleは原文にない。一方、dieux(神々)に当たる言葉が訳文にないので、あるいは新倉真由美はdieuxを「偶像」と訳したのかも知れない。しかし、偶像とは神をかたどって作られた像であり、神自身ではない(だからこそ偶像を禁じる宗教が存在する)。
  • 原文では、カリスマ性は人間のもの、尊大さは神々のもの。しかし新倉真由美の訳では2つの特性が同じもの(偶像?)に属するような扱い。

あまりに単純な表現なので、新倉真由美は自分好みの凝った表現に置き換える誘惑に駆られたのだろうか。しかし、これでは原文と訳文が同じことを言っているように見えない。

同じ文は別個所ではまだまともに訳されているのに

バリシニコフのこの言葉は、12章の最後でもう一度引用される。このときの新倉真由美訳は次のとおり。

『ヌレエフ』P.215:
彼はカリスマ性と愚直なほどの純朴さを備えて地上に降りてきた人間で、近づきがたい神々の尊大さも持ち合わせていました。)

私なら「地上の人間のカリスマと単純さ」を「カリスマと単純さを備えて地上に下りてきた人間」とは言い換えない。しかし少なくとも新倉訳は後半は正しいし、前半もあれほどは原文から離れていない。そのまま訳すのではなく表現を工夫してみるにしても、このくらいが限度ではないだろうか。

更新履歴

2016/5/13
諸見出しを変更、最後の見出し下を加筆

メーク中は「若者と死」の撮影対象外

『密なる時』P.37:
メイキャップのカット撮影の時、私はヌレエフが目の前に掲げて自分の顔を見ていた手鏡をつかんだ。
プティ原本:
A un raccord de maquillage je tenais le miroir du danseur devant son visage,
Telperion訳:
メーク直しの時、私はダンサーの鏡を顔の前で支えていた。

ヌレエフとジジ・ジャンメールの「若者と死」の収録現場でのひとこま。この映像は商品化されており、ヌレエフ財団サイトに撮影の説明(音楽が流れるので注意)がある。

撮影ではなくメイク直しをしていた

raccordの一般的な意味は「接合、つなぎ」といったものだが、転じて化粧直しを指す話し言葉でもある。原文ではわざわざraccordに"de maquillage"(化粧の)が付いているのだから、間違いなく化粧直し。新倉真由美がraccordを「カット撮影」としたのは、この単語から英語のrecord(記録)を連想したからではないかと私は想像している。

「若者と死」の映像商品の説明や、ヌレエフ財団サイトの説明を読む限り、収録されたのは完成した作品のみと思われる。ドキュメンタリー用に楽屋を撮影していたとか、他のマスコミが取材に来て写真を撮ったとかいう可能性もあるが、推測を積み重ねるより、raccordをよく調べるほうが確実。

プティはずっと鏡を持っていた

新倉真由美の書き方だと、ヌレエフが鏡を持っていたところにプティが割って入ったように見える。しかし次に挙げる点から、プティは最初から鏡を持っていたのだと思う。

  • この鏡はダンサー、ヌレエフの顔の前にあるというだけであり、ヌレエフが掲げていたという記述はない。
  • プティが鏡を持つ動作は動詞tenirで表現してある。仏和辞書を引くと、tenirは一瞬の動作よりは持続する動作を指すのに使われる言葉だということが分かる。
  • 原文にあるtenaisはtenirの直説法半過去。直説法半過去とは、過去の持続する動作を指すための時制。現に、この部分の近くにある、一瞬の動作を指す述語の時制は、demanda(尋ねた)とdevint(~になった)が直説法単純過去、"ai répondu"(答えた)が直説法複合過去。tenaisとは区別されている。

ダンサーが競馬騎手の体に憧れるとは

一般常識に照らし合わせると訳文が奇妙に見える場合、私は原文をチェックするようにしています。今回取り上げるのは、『ヌレエフとの密なる時』訳本には数少ないそういう個所。もっとも、ヌレエフやバレエに関する予備知識と照らし合わせると奇妙に見える訳文は、この本にはいくつもありますが。

『密なる時』P.98:
常に体重に対して強迫観念を持っており、競馬騎手の体型を理想としていた彼
プティ原本:
Lui qui avait la hantise de son poids et courait derrière sa silhouette jockey
Telperion訳:
自分の体重に対する強迫観念があり、シルエットの競馬騎手の後ろを走っていた彼

何に違和感があるのか

『三日月クラシック』のミナモトさんが取り上げていなかったら、私は見逃したでしょう。ミナモトさんの突っ込みは次の通り。

男のバレエダンサーがんなもんを目指したら、病気の前に栄養失調で死ねると思います。誇張した表現なんだろうけど、気になったので一応突っ込んでおく。

言われてみれば、騎手は男の低身長が長所となる数少ない職業だというのは、私でも聞いたことがあります。騎手の体は軽さが重要ですから。一方、男性ダンサーは女性ダンサーを持ち上げるのがつきもので、筋肉を美しく付けることが重要。一般的にダンサーのほうが騎手より長身でがっしりした体だろうと想像できます。なのにダンサーが競馬騎手を理想にするとは不思議です。

原文を読んで考えたあれこれ

原文でヌレエフが追っているらしいのは"sa silhouette jockey"。直訳は「シルエットの競馬騎手」というところでしょうか。ただ、「彼の」にあたる所有代名詞saは女性名詞に付くものなので、プティにとっての主な名詞は男性名詞jockeyでなく女性名詞silhouetteであり、「競馬騎手のシルエット」というつもりなのかも知れません。フランス語は名詞にかかる形容詞が場合によって名詞の前にも後にも付きます。私の語学力では、前後どちらが他方を修飾しているのか断定できません。

jockeyは仏和辞書で引いてもやはり「競馬騎手」ですが、体重に関係する複合語があります。ラルース仏語辞書から引用します。フランスでも競馬騎手は軽いという認識なのですね。

Régime jockey
Familier. jeûne forcé ou régime alimentaire amaigrissant.
俗語。体重を減らす強制絶食または食餌療法。(Telperion訳)

おおもとのプティの文では「シルエットの競馬騎手」をどう解釈するのかが肝心ですが、残念ながら私の手に負えません。しかし、プティが体重の強迫観念に触れていることや、体重が軽い騎手を引き合いに出していることから、ヌレエフが体重を軽くしたがっていたのは間違いなさそうに思えます。ただし、プティが言う競馬騎手には「彼の」とか「シルエット」とかが付いており、一般的な競馬騎手を指してはいないのでしょう。もっと軽い理想の体重の持ち主を漠然と指す言葉として、"sa silhouette jockey"という言葉を選んだのではないかと思います。とはいえ、もっと適切な解釈があるのかも知れません。

新倉真由美の対処法

新倉真由美はプティの表現「彼のシルエットの競馬騎手の後ろを走る」から「彼のシルエットの」を省きました。このため、ヌレエフが理想としたのが本物の競馬騎手のように見えます。これが原文と最も違う点ですね。後は、前半が体重の話なのに後半がなぜか体型の話になったことでしょうか。

新倉真由美がプティの表現をそのままにせず、自分に分かりやすいだろう表現に言い換えることに、私は本来好意的ではありません(代表例は「B氏への賛辞にプティがうんざりしなくなった日」)。しかし、今回の部分はプティの表現がとにかく難解だし、新倉真由美による言い換えの程度も少ない。それに、私の推測と新倉真由美の解釈は多分あまり違いません。「もっと原文を緻密に見ればいいのに」より「これだからプティの文は怖い」という感想が先に出ます。

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プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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