伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2013.09.30
翻訳に由来する新倉本『ヌレエフ』の間違い - バレエ一般
2013.09.27
パリオペ監督が高い地位とは言っていない
2013.09.24
プティは振付家としてヌレエフを従わせるつもり
2013.09.20
ロシアの山を飛び越えたキーパーソン?
2013.09.17
ヒーローでも卑劣でもないタランティーノ

翻訳に由来する新倉本『ヌレエフ』の間違い - バレエ一般

前も書いたとおり、新倉真由美訳『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、原本と比べると以下の3つが数多くあります。

  1. 明らかに事実でないこと
  2. 非論理的な文
  3. 意図的と疑いたくなるほど異なるヌレエフ像

このうち3番目については、すでに主だった個所を「新倉本が招くヌレエフの誤解 - 一覧」でピックアップしました。今回は1番目の一部として、原著者のせいでない、バレエ関係の大きく間違った記述を挙げてみます。ただし、ヌレエフ自身に関する間違いは別の機会に譲ります。※があるのは「三日月クラシック」のミナモトさんによる指摘です。

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パリオペ監督が高い地位とは言っていない

『密なる時』P.88:
オペラ座バレエ団の芸術監督は、だれかあるいは何かがその2つの椅子を外させる瞬間までは非常に高い地位だけれど、その時唐突に君は地面に放り出されてしまうのだよ」
プティ原本:
Le directeur du ballet de l'Opéra se croit bien installé jusqu'au jour où quelque chose fait s'écarter les deux sièges, et là, soudain il se retrouve le cul par terre.
Telperion訳:
オペラ座バレエの監督は自分がとても安定していると信じているが、それもある日、何かが2つの椅子を離すまでのことで、すると不意に尻餅をついているのさ。

パリ・オペラ座バレエの監督の地位を、隣り合った2つの椅子の真ん中に座ることにたとえたプティ。

プティが言うのは監督の思い込み

第1文の述語は"se croit ~"(自分が~だと信じる)"。その後に続く言葉"bien installé"はあくまで監督が信じていることで、実際にはそうではないというプティの皮肉がこもっている。

"bien installé"の直訳は「うまく据え付けられた」。椅子の比喩と結びつける場合、私は「何の問題もなく座っている」と解釈している。2つの椅子の間に座っても、自分の位置は大して高くならないので、私は「うまく」を「非常に高く」と同じだとは思わない。もっとも、こちらは人それぞれの解釈がありそうだが。

もとから高くなさそうな監督の地位

新倉真由美がプティ原本と並行して読んでいるMeyer-Stabley著『Noureev』(『密なる時』訳注に書名あり)を読むと、少なくともリファール時代後ヌレエフ時代までは、パリ・オペラ座バレエの監督が自分の意を通すのは大変だった、ダンサーたちが何かと監督に楯突いたと書かれている。これは監督ヌレエフの奮闘を語るうえで欠かせない要素だと思う。しかし新倉真由美は訳本『ヌレエフ』で何度もそういう描写を見過ごしている。目立つ例はこのあたり。

プティが書いた「うまく座った」を「非常に高い地位」と言い換えるのがありえないとまでは思わない。しかし、「昔の監督は苦労が絶えなかったらしいのに…」ともやもやしてしまった。『ヌレエフ』でヌレエフが監督時代も好き勝手したような言われ方なのに不満があるため(「訳本が招くヌレエフの誤解(3) - 馬耳東風」にいくつか例あり)、ここでも引っ掛かるのだと思う。

椅子から落ちるのはヌレエフとは限らない

最後に椅子から落ちる人物をプティはil(彼)と呼んでいる。ヌレエフに向かって話した言葉でヌレエフを彼とは呼ぶはずもない。彼とは最初の文の主語であるオペラ座バレエの監督。プティは一般論として監督の地位の危うさを語っており、ヌレエフ一人に限定しているわけではない。ヌレエフの監督就任が決まる前に話した可能性もある。

更新履歴

2014/6/21
小見出しを導入、2番目の小見出しが付いた内容を書き直し

プティは振付家としてヌレエフを従わせるつもり

『密なる時』P.23-24:
私はこの年若いスーパースターに合わせ、彼の気に入りそうな振り付けをした。
しばらく音楽を聴いた後で、私は彼に3回続けて繰り返し踊ることができるだろうかと尋ねた。
プティ原本:
J'ai réglé au jeune monstre un pas qui lui a plu. Après avoir pendant un moment écouté la musique, j'ai pensé qu'il serait bien de le répéter trois fois de suite.
Telperion訳:
私は若き怪物に、彼の気に入ったステップを合わせた。少しばかり音楽を聴いた後、私はそのステップを続けて3回繰り返すのがいいだろうと考えた。

プティがヌレエフとの初仕事である「失楽園」で一度くじけたものの、稽古を再開したとき。

下手に出るような指示の出し方だとは限らない

第2文の原文は私が訳したとおり、プティが考えたことを述べている。ヌレエフに自分の考えをどう告げたかは書かれていない。新倉真由美は繰り返しを求めるプティの言葉を創作しているが、実際の言葉は「君さえよければ3回繰り返してくれないだろうか」かも知れないし、「今のを3回繰り返してくれ」かも知れない。

以下のことから、この稽古に臨むプティは、「自分の指示には従ってもらう」という強気の態度だったと思われる。

  • この前、フォンテーンがプティに「あのかわいいロシア農民にやりたい放題されたら、あなたはロンドンに長くはいないでしょう」と忠告している。つまり、ロンドンで「失楽園」を完成させたいなら、ヌレエフをうまく操縦しないといけないということ。
  • プティは3回反復をヌレエフにすげなく断られると、その場で稽古をやめて出て行く。

「3回続けて繰り返し踊ることができるだろうか」という質問は、そんなプティの言葉としては、奇妙にへりくだって見える。プティは「この指示を断るなら稽古なんかやめてやる」という気持ちなのだから、「君が嫌ならしなくてもいいよ」と聞こえないような言い方をするほうが、私にはありそうに思える。つまり、上に書いた「君さえよければ繰り返してくれないだろうか」よりは「繰り返してくれ」。しかしそれよりも、原文にないプティの言葉をわざわざ再現しようとしないほうが安全だと思う。

私には、「繰り返し踊ることができるだろうか」という言い方には、自分の立場を確立したいプティより、断定を避け穏当な言葉を選びがちな新倉真由美が強く出ているように見える。あるいは、新倉真由美の頭の中にいる、周囲を振り回すヌレエフ像が、対するプティを弱気なイメージに変えたのかも知れない。

ヌレエフの気に入るステップを意図的にさせたとは限らない

第1文で新倉真由美訳「彼の気に入りそうな振り付け」の原文"un pas qui lui a plu"の直訳は「彼を喜ばせたステップ」。この言い方だと、プティが指示したステップをたまたまヌレエフが喜んだとも考えられる。「彼の気に入りそうな」はプティが意図的にヌレエフ好みの振付を提供したとしか読めないが。

「ステップを彼に合わせる」を「彼の気に入るようにステップを作る」と解釈するのは変ではないと思う。第1文の述語動詞réglerには実際に「合わせる」という意味があるし。ただ、このréglerという単語は、後にプティがヌレエフのために「エクスタシー」を振り付けることを指すのにも使われる(「すぐにはヌレエフと夜遊びできなかったプティ(1)より)。このときプティはヌレエフの新たな可能性を開拓するつもりだったようで、それはヌレエフ好みのステップを振付けるのとはまた異なる概念ではないだろうか。

上の「踊れるかどうか尋ねた」と違い、「彼の気に入りそうな」が明らかに原文からの逸脱だとは私には断言できない。しかし、以下のことから、私ならそういう訳にはしない。

  • 「~そうな」という意味をはっきり示す言葉が原文にない。
  • 「ヌレエフには言うことを聞いてもらう」という決意で稽古に臨むプティに、ご機嫌取りは似合わない。

ロシアの山を飛び越えたキーパーソン?

『光と影』P.99にある、「ヌレエフは亡命時にフランス人の検査官に投げ飛ばされた」というくだりが、私にはどうにも無意味な動作に思えたということは、原本を買う前から「三日月クラシック」にコメントしたとおりです。その後「投げ飛ばされ」「放り投げられ」が誤訳だということは分かりました。しかし、やはりヌレエフが宙を飛んだように読める「キーパーソンは見事にロシアの山を飛び越え」の部分は、今でも訳せません。それでも構文解析はできるし、新倉真由美訳が原文から外れていることも確信できるので、今書けることを書いておくことにします。

『ヌレエフ』P.99:
瞬時にして彼にうまく抱えられたキーパーソンは見事にロシアの山を飛び越え、
Meyer-Stabley原本:
en un éclair, une « clé » bien placée fait voltiger la montagne russe.
Telperion訳:
一瞬のうちに、型によくはまった「固め」がジェットコースターをひらひらと飛び回らせた。

キーパーソン

原文は« clé »。cléの一番普通の意味は「鍵」で、他の言葉と結びついて「キー~」という意味にもなります。これ単独で「キーパーソン」という意味があるかは疑問ですが。私の『プログレッシブ仏和辞典第2版』には後のほうに「(レスリング、柔道の)ロック、固め」という意味が載っています。問題のcléは格闘場面の描写で使われているのだから、この意味だろうと私は思います。

どの仏和辞書にもあるはずという確信はないので、念のためラルース仏語辞典のcléの項から引用します。

Sports Dans divers sports de combat (judo, lutte, etc.), prise effectuée avec un bras, tendant à immobiliser l'adversaire.
スポーツ さまざまな格闘技(柔道、レスリングなど)において、片腕を用いて行い、対戦相手を動けなくすることを目的とする技。(Telperion訳)

うまく抱えられた

原文は"bien placée"で、その直訳は「うまく置かれた」。仏和辞書にある動詞placerの意味は「置く、位置づける、(地位や職に)就かせる、投資する」など。私が上に書いた「型によくはまった」は、仏和辞書から感じる「あるべき場所に置く」というようなニュアンス、そして目的語が格闘技であることを踏まえて連想した概念です。しかし、辞書から良さそうな意味を探すというより、cléに合わせて発案したのに近い言葉なので、残念ながら確信は持てません。辞書や文法よりも自分の連想を優先する訳文を何度もブログのネタにしているとあっては、なおさらです。

見事にロシアの山を飛び越え

原文は"fait voltiger la montagne russe"で、上にある「ジェットコースターをひらひらと飛び回らせた」はその直訳。使役動詞faireを使った使役文で、主語であるcléが目的語"la montagne russe"にvoltigerという動作をさせたということです。文字通りには「ロシアの山」である"la montagne russe"がジェットコースターという意味なのは、「三日月クラシック」の原文比較2でも書きました。

動詞voltigerが曲者で、私がこの文を正しく訳すのを無理そうだと思うに至った最大の原因です。仏和辞書にある意味は「飛び回る、ひらひら舞う、はためく」。ラルース仏語辞書を引いても、軽やかに動き回る様子を指すとしか読めません。ジェットコースターは詰め寄るKGBの比喩としてありえそうですが、KGBが固め技で応戦される様子がなぜvoltigerなんて言われるのでしょう。

結局どういう意味なのか

私がこの文を訳せと言われたら、「無理です、省略させてください」と音を上げると思います。しかしどうしても日本語にしなければならないなら、「巧みな固め技が相手のスピードを削いだ」といった意味にするでしょう。「ジェットコースターがひらひら飛び回る」はわけが分からない表現ですが、少なくともジェットコースターがジェットコースターらしさを失ったとは言えそうなので。

cléが「キーパーソン」と「固め技」のどちらなのかということなら、私には後者が正しいと断定まではできません。しかし原文では、voltigerという動作をするのは明白にジェットコースターであり、cléではありません。新倉真由美の訳だと、voltigerがcléの動作のような書き方です。動作主を変えるのは、解釈や表現の違いではおさまらない原文逸脱でしょう。ただし、voltigerを「飛び越える」でなく「飛び越えられる」と解釈するなら、「ジェットコースターに飛び越えられさせる→ジェットコースターを飛び越える」ということで、新倉真由美訳につながります。しかし、いくらなんでもvoltigerの辞書上の意味から離れ過ぎていて、私にはその解釈を採用できません。

ヒーローでも卑劣でもないタランティーノ

『密なる時』P.62:
粗暴で偏狭で卑劣なヒーロー、タランティーノ(注9)にも似ていた。
プティ原本:
et tels les héros sordides de Tarantino, brutal et borné.
Telperion訳:
タランティーノの下劣な主人公たちのように、粗暴で偏狭だった。

ヌレエフを「モリエールの守銭奴のように倹約家、ユノのように忠実」などとたとえ続けた文の最後を締めくくる比喩。

タランティーノは新倉真由美の訳注にあるように映画監督。他の比喩では架空の人物や抽象的な人物を取り上げているプティが、ここに限ってタランティーノという生存する人物を取り上げ、しかも性格にケチをつけるのには違和感を覚える。正しくは「ヒーロー、タランティーノ」でなく「タランティーノのヒーロー」、つまり映画の登場人物なのだろうと、原文を知らなくても推察した読者は多いと思う。わざわざ私が原文を出して裏付けるまでもないような気もするが、一応明記しておく。

  • 原文では"de Tarantino"(タランティーノの)が"les héros sordides"(下劣なヒーロー)を修飾している。
  • ヒーローとタランティーノが同一人物なら、ヒーローは原文のような複数形でなく、単数形"l'héros sordide"になるはず。

原文の"brutal et borné"(粗暴で偏狭)は文法的にはTarantinoだけを修飾することも可能だろう。しかし、ヌレエフに似ているとされているのがタランティーノ自身でなくその主人公なのは明らかなので、"brutal et borné"という形容も主人公のものだと見なすほうが自然。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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