伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2013.09.13
映画「ヴァレンティノ」ラストのオレンジ
2013.09.09
狙った相手を魅了するヌレエフの手腕
2013.09.06
近寄りがたい雰囲気
2013.09.04
笑いは二人の高揚を高めた
2013.09.02
命を得たのはヌレエフのイメージであってプティではない

映画「ヴァレンティノ」ラストのオレンジ

間違いとまでは言わないものの、原本と訳本の間にある差異に気づいたことが、この記事を書くきっかけとなりました。まずその部分を引用します。

『ヌレエフ』P.242:
この映画の最後には、ヴァレンチノが決して手に入れられなかった穏やかな幸福の象徴としてオレンジが登場するが、彼のオレンジはなんだったのだろう? イタリアの恋人ヴァレンチノは、オレンジ畑を買って引退することを夢見ていたらしい。
Meyer-Stabley原本:
Quelle est son orange à lui, ce symbole du bonheur tanquille que l'on voit, à la fin du film, échapper à jamais des mains de Valentino (toute sa vie, paraît-il, l'Italian lover rêva d'acheter une orangeraie et de s'y retirer...).
Telperion訳:
彼のオレンジ、映画の終わりでヴァレンティノの手から永遠に逃れていくのが見られるこの平穏な幸福の象徴とは何なのか(どうやら生涯を通じて、「イタリアの恋人」はオレンジ園を買ってそこに隠居することを夢見ていたらしい…)。

新倉真由美訳の「ヴァレンチノが決して手に入れられなかった」に当たるMeyer-Stableyの原文は"échapper à jamais des mains de Valentino"(ヴァレンティノの手から永遠に逃れる)。さらに、この語句が"l'on voit"(不特定の人が見る)と組み合わさり、「永遠に逃れるのを不特定の人が見る」という意味になることから、ヴァレンティノからオレンジが逃げる場面は、目に見える具体化された映像らしいと推測できます。

オレンジの登場の仕方

映画「ヴァレンティノ」の終わりでオレンジがどのように登場するか、私が2つの描写から想像したことを書きます。

新倉真由美の描写から受ける印象
  • 本筋の場面と無関係にオレンジの画像がフラッシュバックのように現れる
  • エンドクレジットの背景
Meyer-Stableyの描写から受ける印象
  • ヴァレンティノがオレンジを取り落とす
  • ヴァレンティノがオレンジに手を伸ばすが、届かない

Meyer-Stableyは「ヴァレンティノの手から逃れるのが見られる」とはっきり書いている以上、オレンジはヴァレンティノのすぐそばにあったはず。本当にそうだったのだろうか、気になる…見られたらいいんだけど…そういえばYouTubeにあったはず…見つけた!

そんなわけで、映画のラストだけ見るなんて行儀が悪いとは思いながらも、確認してしまいました。確かに、手から永遠に逃れ去りましたね、オレンジ。オレンジをもてあそんだヴァレンティノが倒れ、転がるオレンジから目を離さないまま目を閉じるのでした。

Meyer-Stalbeyはどこでオレンジのことを知ったのか

それにしても、Meyer-Stableyはさらっとラストを描写していますが、「ヴァレンティノ」のラストは大して知られていないでしょうね。オレンジのことまで書くほど詳しいあらすじ紹介は、なかなかないだろうと思います。

Meyer-Stableyの参考文献の中に、"BLAND (Alexander),Noureev-Valentino,Paris, Le Chêne, 1977"があります。ナイジェルとモードのゴスリング夫妻がペンネームで書いた本。恐らく原題を尊重し、英語やイタリア語の書籍タイトルではNureyevと書くMeyer-Stableyが、ここではNoureevというフランス語表記なのに注目です。しかも出版社がパリのLe Chêne。恐らくフランス語版ですね。外国のヌレエフ関連本がフランスで出版し直されるのはほとんどなさそうなのに、これが出版されるとは驚きです。ゴスリング夫妻なら、綿密に場面を説明しても不思議はありません。多分この本がオレンジの出典だと私は考えています。

映画の映像を見た可能性もありますね。2003年当時にDVDの普及がどうだったかは覚えていませんが、ビデオテープだったとしても、ざっと見るくらいはできそうです。もし実際に見ていたとしたら、そのまめさに感動します。

新倉真由美訳について

新倉真由美は別の個所で、"à jamais"(永遠に)を"ne ~ jamais"(決して~ない)と取り違えています(「三日月クラシック」の原文比較2より「P.186 彼らの関係に~」。だからここでも「決して~なかった」という表現を使っているのを見ると、「また取り違えているのかな」と疑ってしまいます。しかし、同時に"échapper des mains"(手から逃れる)を「手に入れる」と訳したために、文全体としては「永遠に手から逃れる」に対して「決して手に入れられない」という、それほどかけ離れていない意味になったのではないかと。

原文の直訳を正しく理解した上であえて「決して手に入れられない」にした可能性はあります。ただ、私自身が実際の情景を浮かべられるのはMeyer-Stableyの描写なので、この場合はそれを尊重したほうがよかったかと思います。

狙った相手を魅了するヌレエフの手腕

『密なる時』P.18:
際立っているところはひとつもないが、一度興味を抱くと、人々はひと目で虜になってしまう。その視線は、「あなたを好きになりそうなんだけど、仲良くしていけるかな?」とでも語っているようである。
プティ原本:
Rien d'extraordinaire et pourtant quand il vous portait intérêt, on était conquis par le premier regard, un regard interrogateur, « vous me plaisez, semblait-il dire, allons-nous nous entendre ? »,
Telperion訳:
並外れたものは何もなく、それでいて彼から興味を持たれると、一目視線を浴びれば、物問いたげなその視線に征服されるのだ。「気に入りましたよ、分かり合えるでしょうか」と言ってくるかのようだ。

新倉真由美の訳文に少しばかりのあいまいさを感じるので、くどいかもしれないが、きっちり説明してみる。

興味を抱く主体はヌレエフ

「一度興味を抱くと」の原文は"quand il vous portait intérêt"(彼があなたに興味を持つと)。つまり、人々がヌレエフに興味を抱くのでなく、ヌレエフが人々に興味を抱く。ヌレエフが興味を持つと相手が征服されるというのは、「狙った獲物は逃さない」とも言い換えられる。プティは誘惑者としてのヌレエフの手腕を高く買っていることが分かる。

新倉真由美の文は、「初めはヌレエフに興味がない人でも、何かの偶然でヌレエフに興味を持つと、たちまち虜になる」とも読める(実際、私は「ヌレエフと相手のどちらが興味を持ったの?」と迷った)。ヌレエフに興味を持たずじまいの人は、虜になることもない。プティの表現に比べると、ヌレエフの誘惑が空振りに終わる確率が若干上がる表現だと思う。

ヌレエフの虜になるための視線はヌレエフからのもの

「一目で虜になる」という言い回しは、「ある人が何かを見て、その途端に見たものの虜になる」という意味で使われると思う。上記の新倉真由美訳の場合は、「人々がヌレエフを一目見た途端に虜になる」。

しかし原文で「ひと目」に当たる"le premier regard"(最初の視線)は、"un regard interrogateur"(物問いたげな視線)と並べて書いてあり、どちらも同じ視線について説明していると推測できる。問いかける内容から、「物問いたげな視線」の主は明らかにヌレエフ。したがって、「最初の視線」もヌレエフの視線。プティが言っているのは、「人々がヌレエフに一目見られた途端に虜になる」。このほうが、「彼が興味を持つと相手は征服される」との相性もいい。

近寄りがたい雰囲気

『密なる時』P.26-27:
彼と出会った人々は、振り返ってみるものの、あえて近づいて見つめたり賛辞を浴びせたりすることはしなかった。このスーパースターは、映画好きな人々の間でよく知られている、スフィンクス(グレタ・ガルボのこと)のように虚ろな目をし、神秘的で尊大な雰囲気を醸し出していた。
プティ原本:
Les gens sur son passage se retournaient et n'osaient pas l'approcher pour le regarder de plus près ou lui demander une dédicace, tant le monstre prenait un air mystérieux et hautain, les regard absent, tel un sphinx bien connu des cinéphils*.
*Greta Garbo.
Telperion訳:
彼の通り道にいる人々は振り返った。そして、もっと近くで見たりサインを求めたりするために思い切って近寄りはしなかった。それほどまでに怪物は神秘的で尊大な雰囲気をまとい、ぼんやりした目つきで、映画好きによく知られたスフィンクス*のようだった。
*グレタ・ガルボ

献辞の宛先

街中でヌレエフに気づいた一般人が近寄る場合の動機として挙げられた"lui demander une dédicace"は、直訳すると「彼に献辞を求める」。つまり、ここでいう献辞とは、一般人からヌレエフにでなく、ヌレエフから一般人に渡るもの。一般人が有名人からもらいうる献辞としてすぐに思い浮かぶのは、「誰それへ愛をこめて、ルドルフ」といった言葉が書かれた紙。これを求める言葉とは、一般人が有名人に呼び掛ける言葉としてはきわめてありふれた、「サインください!」だろう。

ヌレエフの雰囲気と近寄らない人々の関係

ヌレエフが人を寄せ付けない雰囲気だったという文の前にtant(それほどに)があるので、この雰囲気こそが人々が寄ってこない原因だと分かる。この言葉がないと、有名人のプライベートを乱さないという思いやりのせいだとも受け取れる。せっかくプティの考えが明快なのだから、訳文でもそのまま伝えておきたい。

笑いは二人の高揚を高めた

『密なる時』P.101:
突然笑い声が私たちを遮り、
プティ原本:
Soudain le rire vint nous envahir,
Telperion訳:
不意に我々の中から笑いが沸き起こり、

最終章、プティの夢とうつつのはざまでプティとヌレエフがひとつになって踊ったときのこと。

直訳は「不意に笑いが我々を満たしに来た」。envahirは「侵入する、いっぱいに広がる、満たす」などといった意味だが、主語が笑い(le rire)、目的語が我々(nous)なので、この場合の意味は「(感情などが)満たす」だろう。笑いが満たす対象としてヌレエフも含まれるということは、笑いに満たされる状態は内心だけのことでなく、外から見てもそれと分かるのだろう。恐らく2人は笑い出したのだと私は想像している。

新倉本ではこの文は前後の状況に水を差す

この文は「もはや一心同体になっていた」の次に来る。さらにこの文に続いて「どんどん回転の速さを増していった」「大勢の群衆がやって来て観客となり」「もっと踊って、もっともっと」(訳本より)と、興奮が見る間に高まっていく。

新倉真由美の上記の訳の何が引っ掛かるかというと、その高ぶりに水を差す内容だということ。他人が笑い声をあげ、プティとヌレエフを邪魔したかのよう。プティがいう笑いとは2人の心からほとばしり出るもので、2人を引き離しも止めもしていないのに。直後にハイテンションの文が続くため、一瞬のことではある。しかし、私は訳本のここを読むたびに、短距離走のランナーが途中で小石か何かにつまずいたのを見るかのように、緊張の糸が切れるのを感じる。

更新履歴

2016/5/11
諸見出し変更

命を得たのはヌレエフのイメージであってプティではない

『密なる時』P.27:
私の魂は彼によって稲妻に打たれたような衝撃を受け、それは私に確かな生気を与え、数々の思い出を眩いばかりに光り輝かせた。
プティ原本:
Mon esprit est frappé par certaines images fulgurantes qui prennent vie avec précision et illuminent mes souvenirs.
Telperion訳:
私の精神に強い印象を刻んだ閃光のようないくつかのイメージは、正確に命を宿し、私の思い出を輝かせる。

"certaines images fulgurantes"(閃光のようないくつかのイメージ)を関係節"qui prennent vie avec précision et illuminent mes souvenirs"(正確に命を得て、私の思い出を輝かせる)が修飾している。関係節で使われている表現"prendre vie"は、直訳「命を得る」から想像するとおりの意味だろう。実際、別の場所で使われている"prendre vie"を新倉真由美はそのように解釈している。

プティ原本:
C'était parti : Le Paradis perdu, d'après Milton, prenait vie.
『密なる時』P.21:
それはミルトンによる詩『失楽園』からヒントを得たもので、創作の幕が切って落とされ、徐々に生命が吹き込まれ仕上がっていった(注4)。

そういうわけで、生を受けたのはプティでなく、ヌレエフのいくつかのイメージ。それが命を持つというのは、プティがはっきり覚えているということの詩的な表現なのだろう。

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

カテゴリ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
タグ

マーゴ・フォンテーン エリック・ブルーン ノートルダム・ド・パリ パトリック・デュポン マリア・トールチーフ ミック・ジャガー 

全記事表示リンク

全ての記事を表示する