伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2012.08.31
母の応援は積極的ではない
2012.08.31
ヌレエフを選んだドゥジンスカヤの正しさ
2012.08.30
ヌレエフの談話が展示会関係者のものに
2012.08.29
ストライキに関与するのは誰か
2012.08.28
ソ連の指導者とソ連の第一人者は違う

母の応援は積極的ではない

『ヌレエフ』P.31:
ルドルフはいつも父に嘘をつかねばならなかった。しかし母親は愛情深く、こっそりバレエのレッスンやリハーサルを受けるため買い物に行くなど口実を作ってくれた。
Meyer-Stabley原本:
Rudolf doit donc constamment mentir à son père, avec la complicité affectueuse de sa mère, pour continuer sa formation. Il invente des subterfuges pour se rendre en cachette à des répétitions et à des leçons de danse. Parfois, il propose d'aller faire des courses à la place de sa mère.
Telperion訳:
このため、ルドルフは訓練を続けるために、母から愛情こめて黙認してもらい、父にいつも嘘をつかねばならなかった。彼はこっそり踊りの稽古やレッスンに出かける口実をでっちあげた。時おり、母の代わりに買い物に行こうと申し出た。

幼いころ、息子のバレエに反対する父の目を盗んで稽古に出かけていたヌレエフ。

出かける口実を作ったのはil(彼)、つまりヌレエフ。母なら代名詞はelle(彼女)になるはず。母は息子が出かける目的を察しながら妨害しなかったのにとどまっている。

新倉本には、少年ヌレエフのバレエへの傾倒について、他に次の文がある。

  • ただひとり本当に彼を支えてくれたのは、姉のローザだった(P.28)
  • 両親は彼のバレエへの執着が恐ろしく感じられ(P.33)

母は父ほど頭ごなしにヌレエフに反対しなかったとはいえ、全面的な味方というわけでもなさそう。同じ印象は伝記『Nureyev: His Life』(Diane Solway著)や『Nureyev: The Life』(Julie Kavanagh著)からも受ける。

ヌレエフを選んだドゥジンスカヤの正しさ

『ヌレエフ』P.64:
彼の卓越した技量によってドジンスカヤはのびのびと踊れた。彼が選んだパドシスは秀逸な出来だった。
Meyer-Stabley原本:
Elle est surtout soulagée que Rudolf ait aussi bien dansé ― le pas de six notamment fut splendide ―, car cela donne raison à son choix.
Telperion訳:
彼女はルドルフの踊りが同じように優れていたことにとりわけ安堵した(なかでもパ・ド・シスは素晴らしかった)。自分の選択が理にかなっていることが明らかになったからだ。

キーロフのプリマ・バレリーナ、ナタリア・ドゥジンスカヤとキーロフに入団したばかりのヌレエフの共演が成功したことについて。

引用した部分はカンマの前と後で別々の文になっている。後半部分、つまりcarから文末までの部分は、「なぜならこのことが彼/彼女の選択の正しさを示したからだ」となる。

  • "donner raison à ~"は「~の正しさを示す」というイディオム
  • sonは文脈に応じて「彼の」または「彼女の」

長ダッシュ(―)の対は括弧と同じように使われる。括弧の場合と同じく、長ダッシュの対の外側にある文章は、対の内側にある語句を無視しても成立するように書かれる。だから、対の外側にある"son choix"(彼/彼女の選択)が対の内側にある"le pas de six"(パ・ド・シス)を指すことはない。つまり、選択されたのはパ・ド・シスではない。

引用の前半部分で「ドゥジンスカヤはルドルフの優れた踊りに安堵した」と言っていることを考えると、"son choix"は「彼女の選択」、つまりヌレエフをパートナーに起用するというドゥジンスカヤの選択であることが分かる。

ヌレエフの談話が展示会関係者のものに

『ヌレエフ』P.222:
彼は多くを要求し腹を立て、時に激怒しながら希望を叶えていました。私は議論や弁解や交渉はしませんでした。彼は悩むのが好きだったのです。私は話し合いで時間を失うのは耐えられずバレエを知っていると思いあがっていたのです。博学な人は大いに知識を活用すべきです。たとえ皆がそれを喜ばないとしても」
Meyer-Stabley原本:
Il exigeait, tempêtait, s'emportait souvent, obtenait toujours ». « Je refuse d'arguer, de justifier, de négocier, se plaisait-il à marteler. Je ne supporte pas de perdre mon temps en discussions. J'ai la prétention de connaître la danse. Je sais. Et quand on sait, il ne faut pas hésiter à appliquer ses connaissances. Cela ne plaît pas à tout le monde. »
Telperion訳:
彼は要求し、どなりつけ、時にかっとなり、いつも希望を叶えていました」。「議論も正当化も交渉もごめんです」と彼は連呼するのが好きだった。「議論で時間を失うのには耐えられません。私にはバレエを知っているという自負があります。身に付いているのです。身に付いているとき、知識を適用するのをためらう必要はありません。それを喜ばない人もいます」

ヌレエフが舞台のために多くを要求したことを物語る談話。

談話の主は2人

最初の談話は、舞台衣装展示会の関係者と思われるBérengère Vincent(訳本では「ベルジェール・ヴァンサン」だが、「ベランジェール・ヴァンサン」のほうが近い発音だと思う)のもの。この談話は"obtenait toujours."で終わる。

"Je refuse"以降は別の談話。2番目の談話の途中にある倒置文"se plaisait-il à marteler"は、談話の一部ではなく、発言者を説明する文。談話の中に「誰それはこう言った」という文を倒置文で書く手法については、「ポッツがヌレエフと別れた理由」で触れている。

2番目の談話の主はil(彼)としか言われていない。しかし、これほど強気な内容は、Bérengère Vincentよりヌレエフが言いそうなことに思える。それにBérengèreはどうやら女性名らしく、そうならilではありえない。

ヌレエフが好きなこと

2番目の談話の主が好きなことである動詞martelerの意味としては、「打つ」「連打する」「悩ませる」などがある。私は談話の主が発言内容をmartelerするのだと考え、「連打する」からの連想で「連呼する」にしてみた。しかし、Meyer-Stableyは"il déconcerte, irrite, fascine."という文で暗黙のうちに他者一般を動詞の目的語としているので(この文の意味は「 「魅惑する」が「激怒する」に」を参照)、ここでもmartelerされるのは他者一般だと考え、「悩ませる」という解釈もありえる。ただし、自分が悩むのと人を悩ませるのはまったく違うことであり、「悩ませる」を「悩む」と言い換えることはできない。

2013/1/31
Bérengère Vincentの素性の推測を追加
2014/1/18
文の順序の入れ替え、小見出し追加を中心とした書き換え

ストライキに関与するのは誰か

『ヌレエフ』P.288:
彼はストライキのためでなく、踊るためにそこに存在していたのだ。
Meyer-Stabley原本:
On est là pour danser. Pas pour faire des grèves.
Telperion訳:
踊るためにいるのではないか。ストライキをするためではない。

ヌレエフが対立相手に露骨に敵意をぶつけ、オペラ座での立場を悪化させる様子を書いた部分から。「溝を越えられなかったヌレエフの比喩」も同じ段落にある。

引用部分の主語onは、人間一般を指すときや、主語をぼかしたい場合に使う代名詞。話し言葉では「我々は」など通常の代名詞のように使うこともあるが、書き言葉では最初に述べた意味がほとんどだと思う。

ここでonについて言われているのは、「踊るためにそこにいる」と「ストライキをするため(にそこにいるの)ではない」の2つ。"faire grève"は「ストライキに対処する」のような意味を持たず、「ストライキをする」。雇用者側である監督ヌレエフはストライキをする立場にないので、onはヌレエフを指すのではない。「踊る」「ストライキをする」の両方に関連するのは、被雇用者であるオペラ座ダンサーたち。彼らが気に入らない仕事をやりたがらず、何かとストライキを武器にしてきたことは、「パリ・オペラ座バレエの御しにくさ」などで書いている。

ヌレエフとバレエ団との対立激化という文脈を考えると、引用部分はヌレエフがスト権を振りかざす団員たちを非難する心中を想像していると推測できる。

ソ連の指導者とソ連の第一人者は違う

『ヌレエフ』P.73:
フルシチョフの妻ニーナ・ペトローヴァはクラシックバレエの愛好家で批評家としてもソヴィエトで第一人者であった。
Meyer-Stabley原本:
La femme de Khrouchtchev, Nina Petrovna, est une passionnée de ballet et le leader soviétique lui-même apprécie la danse classique.
Telperion訳:
フルシチョフ夫人ニーナ・ペトローヴナはバレエの熱烈なファンであり、ソ連の指導者自身が古典バレエを評価していた。

最初の文の主語がニーナ・ペトローヴナ、述語がest(~である)なのは明らかだが、途中のapprécieは動詞apprécier(~を評価する)の直説法現在三人称単数形なので、これも述語。この述語に対する主語は、直前にある"le leader soviétique"(ソ連の指導者)。つまり、この引用部分では2つの文が接続詞et(そして)でつながれている。

ソ連の指導者とは、ソ連の最高権力者を指す言葉なので、この場合はもちろんフルシチョフ。夫婦そろってバレエ好きということ。

2012/11/18
記事「フォンテーンのあおりを食らったのはパートナー」の原文で1つの文に述語の動詞が2つあることを踏まえ、当初あった「述語が2つあるのだから、文も2つある」という記述を消して若干書き直し。
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プロフィール

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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