伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2012.06.27
マカロワやバリシニコフはヌレエフより先に帰国
2012.06.26
「白鳥の湖」をめぐる抗議と遅れの因果関係
2012.06.25
ennui(困ったこと)とennemi(敵)
2012.06.24
根拠薄弱と思われるイヴ・サンローランとの恋愛
2012.06.23
知性的で強い性格なのはヌレエフ

マカロワやバリシニコフはヌレエフより先に帰国

『ヌレエフ』P.284:
オレグ・ビノグラフ(原文ママ)が提案した招待公演は、後年バリシニコフやマカロワが帰国した際にも同様に行われた。
Meyer-Stabley原本:
Ainsi, l'invitation du Kirov émane d'Oleg Vinogradov qui, après le retour de Barichnikov et Makarova, convie de la même façon le Tartare.
Telperion訳:
そういうわけで、キーロフの招待がオレグ・ヴィノグラドフから発信された。ヴィノグラドフはバリシニコフとマカロワの帰還後、同じ流儀でタタール人を招いた。

1989年11月にヌレエフがレニングラードでキーロフ・バレエのゲストとして「ラ・シルフィード」を踊ったことについて。

仏文解釈

Oleg Vinogradovを関係詞"qui convie de la même façon le Tartare"(同じ流儀でタタール人を招いた)が修飾し、この関係詞を"après le retour de Barichnikov et Makarova"(バリシニコフとマカロワの帰還後)が修飾している。つまり、ヌレエフが招待されたのはバリシニコフとマカロワより後。

マカロワとバリシニコフの帰国時期に関する新聞記事

  • 1989年2月1日のLos Angels Times紙の記事には、レニングラードでキーロフ・バレエとの共演を控えたマカロワのインタビューが載っている。記事にはこうある。

    Makarova is the first defecting Soviet artist to accept an invitation to perform in her motherland.

    亡命したソ連の芸術家のうち、祖国での公演の招待を承諾したのはマカロワが初めてである。(Telperion訳)

  • 1989年7月2日のNew York Times紙の記事には、ヴィノグラドフがバリシニコフとABTをレニングラードに呼ぶ計画が進んでいることが記されている。

更新履歴

2014/1/21
引用文の文脈を追加、小見出しや箇条書きを導入

「白鳥の湖」をめぐる抗議と遅れの因果関係

『ヌレエフ』P.258:
リハーサルが二週間遅れたことへの抗議はありました。
Meyer-Stabley原本:
il y a eu des contestations qui ont retardé les répétitions de quinze jours.
Telperion訳:
抗議の結果、練習が15日2週間遅れました。

1984年にヌレエフ版「白鳥の湖」を上演したときのトラブルについて釈明するヌレエフの言葉。

直訳は「練習を15日2週間遅らせた抗議がありました」。練習の遅れは抗議の原因ではなく結果。

なぜ抗議があったのか

Meyer-Stableyはきちんと説明していないが、ヌレエフ版「白鳥の湖」は当初、ブルメイステル版に馴染んでいたパリ・オペラ座のダンサーたちの猛反発を受けた。ルドルフ・ヌレエフ財団サイトの「白鳥の湖」説明ページにはこうある。

for two weeks, they refused to rehearse a single step.

2週間、彼らは1ステップたりとも練習するのを拒否した。(Telperion訳)

このいきさつは他にもヌレエフの伝記『Nureyev: His Life』(Diane Solway著)や『Nureyev: The Life』(Julie Kavanagh著)など、あちこちで語られている。

更新履歴

2012/8/21
"quinze jours"の訳語を修正
2014/1/22
状況説明を追記

ennui(困ったこと)とennemi(敵)

『ヌレエフ』P.83:
ピエール・ラコットは当時を振り返って彼の言葉を伝えた。「もしこのままずっと会い続けたらあなたは敵を作ってしまうでしょう。私自身も敵になりかねません」
Meyer-Stabley原本:
« Si je continue à vous voir, nous a-t-il dit, vous allez avoir ennuis, moi aussi », se souvient Pierre Lacotte.
Telperion訳:
「『僕があなた方に会い続けたら、あなた方はやっかいなことになるでしょうし、僕もです』と言われました」とピエール・ラコットは振り返る。

亡命前のヌレエフが、当局の意向に構わずラコットたちフランス人と親交を深めていたときのこと。

会い続けるとどうなるか

  • "vous allez avoir ennuis"の直訳は「あなた方は困ったことを持つでしょう」。ennuiは「心配、困ったこと」。ちなみに「敵」のフランス語はennemi。
  • "moi aussi"は「私も」。この場合は「私も困ったことになる」の短縮。

誰の言葉なのか

訳本の「彼の言葉」はラコットかヌレエフか分かりづらい。原文の"nous a-t-il dit"は"il nous a dit"(彼が私たちに言った)"の倒置文なので、ヌレエフがラコットたちに言った言葉だとすぐ分かる。

更新履歴

2014/1/28
構文解釈を少し追記するのを中心に書き換え

根拠薄弱と思われるイヴ・サンローランとの恋愛

『ヌレエフ』P.182:
そしてデザイナー界の第一人者イヴ・サンローランがいた。
Meyer-Stabley原本:
et, si l'on en croit l'une des biographes du couturier, Yves Saint Laurent.
Telperion訳:
そして、かのデザイナーの伝記作家の1人を信じるなら、イヴ・サンローランである。

ヌレエフと恋愛関係にあった有名人としてMeyer-Stableyがいくつかの名前を挙げた後、最後にもってきたのがこれ。

前置きの内容

イヴ・サンローランの名を出す前に、「そのことについてデザイナーの伝記作家の1人を信じるなら」(si l'on en croit l'une des biographes du couturier)という前置きがある。ここでいうデザイナー(couturier)は直前に定冠詞leが付いているので(couturierの直前のduは"de le"の略)、特定の一人のデザイナーを指す。この場合は言うまでもなく、直後に名が出るサンローラン。

biographeに「伝記作家」以外の意味は見当たらない。新倉真由美が「デザイナー界の第一人者」を原文のどこから連想したのかは、さっぱり想像がつかない。

名の出し方の慎重さ

サンローランの名にだけ付いているこの前置きは、「その伝記作家の間違いかもしれないが」という含みを持たせている。この前置きがある理由として、私に思い浮かんだのは次のようなもの。

  • この伝記作家とは、直後に名が出るアリス・ローソン(Alice Rawsthorn)。彼女が著した伝記『Yves Saint Laurent』(原本には出版社や該当ページまで記載あり)が唯一の出典だから。
  • 原本が出版された2003年当時は存命だったサンローランやそのパートナー、ピエール・ベルジェから反撃される可能性をMeyer-Stableyが無視できなかったから。他の有名人は故人だったり異国人だったりするので、根拠薄弱だったとしても、リスクはきわめて少ない。

更新履歴

2014/1/21
小見出しや箇条書きの導入、説明の追加

知性的で強い性格なのはヌレエフ

『ヌレエフ』P.240:
ジョナサン・ベンソンは推測する。「彼は台本とは違い知性的で強い性格の人物を誕生させ、より強く非常に頑固一徹に演じたのです。
Meyer-Stabley原本:
« L'intelligence et la force de caractère de Noureev ont donné naissance, estime Jonathan Benson, à un personnage qui n'est pas exactement celui du scénario : il est plus fort, beaucoup plus entier.
Telperion訳:
ジョナサン・ベンソンは考える。「ヌレエフの性格の知性と強さが、脚本と厳密には同じでない人物を生み出したのです。この人物の方が強く、はるかに頑固一徹です。

映画「ヴァレンティノ」を主演したヌレエフの評の1つ。

知性と強さはヌレエフのもの

原文におけるベンソンの語りの第1文は、コロンまでの部分のうち、話者ベンソンの説明"estime Jonathan Benson"(ジョナサン・ベンソンは考える)を抜いた次の部分。

L'intelligence et la force de caractère de Noureev ont donné naissance à un personnage qui n'est pas exactement celui du scénario :

この文ではイディオム"donner naissance à ~"(~を生む)が使われている。このイディオムを1つの他動詞だと見なすと、この文を「主語 + 述語 + 目的語」という構文だと見なすことができる。

主語
L'intelligence et la force de caractère de Noureev (ヌレエフの性格の知性と強さ)
述語
ont donné naissance à (生んだ)
目的語
un personnage qui n'est pas exactement celui du scénario (厳密には脚本の人物でない人物)

つまり、「知性と強さ」は映画のヴァレンティノでなく、ヌレエフの特性。

より強くて頑固なのはヌレエフによるヴァレンティノ像

コロンの主な用法の1つは、コロンの前にあることをコロンの後で詳細に説明するというもの。上の原文では次のようになっている。

コロンの前
un personnage qui n'est pas exactement celui du scénario (厳密には脚本の人物でない人物)
コロンの後
il est plus fort, beaucoup plus entier (彼はより強く、はるかに頑固一徹です)

つまり、より強くて頑固なのは、脚本と少し違う人物、つまりヌレエフ演じるヴァレンティノ。新倉真由美の文だと、ヌレエフ自身か、それともヌレエフが生み出したヴァレンティノか、ちょっと分かりにくい。

更新履歴

2012/11/20
最後の段落を追記
2014/9/21
構文解釈を詳しく書き直す
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プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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