伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2014.11.06
関係悪化の原因として語られるのはブルーンの感情のみ
2014.07.30
トールチーフとブルーンがかつての恋人だという示唆
2014.04.09
忍耐と献身はドゥース・フランソワだけの説明
2014.02.25
テネシー・ウィリアムズの言葉が事実とは限らない
2013.12.16
バリシニコフによる弔辞は素直に訳せば十分なのに

関係悪化の原因として語られるのはブルーンの感情のみ

『ヌレエフ』P.151:
ルドルフはすっかり有名人になってしまった自分の周辺で、エリックがあまり注目を浴びなくなるのを気の毒に思っていた。
Meyer-Stabley原本:
De plus, le Russe est devenu une telle célébrité qu'il est pénible pour Erik de sentir moins d'attention autour de lui.
Telperion訳:
その上、ロシア人があまりに有名人になったため、自分の周りでの関心のほうが低いと感じるのは、エリックにとってつらいことだった。

デンマークの名ダンサーであるエリック・ブルーンとヌレエフの関係が、恋愛としては成り立たなくなったことについて。

構文解析

原文の"il est pénible pour Erik de sentir ~"では、次の構文が使われている。英語にも同様の構文があるので、比べてみると理解しやすい。

フランス語
il est A(形容詞) pour B(名詞) de C (不定詞)
英語
it is A(形容詞) for B(名詞) to C (不定詞)
日本語の意味
CはBにとってAである。

原文に当てはめると、AからCまではこうなる。

形容詞A
pénible (つらい、耐えがたい)
名詞B
Erik (エリック)
不定詞C
sentir moins d'attention autour de lui (彼の周りでより少ない関心を感じる)

原本と新倉本が違う個所

感情の主はヌレエフでなくブルーン

さっき取り上げた文の先頭にあるilは仮主語に過ぎない。真の動作主、つまり少ない関心を感じているのも、その状況を苦痛に思うのも、前置詞pourの後に書かれたブルーン。

その前に「ロシア人(ヌレエフ)があまりに有名人になった」という文があるため、新倉真由美はその後に続く"il est pénible"を非人称構文ではなく「彼はpénibleである」と解釈したのではないかと思う。

ブルーンの悩みは深刻

pénibleの意味は「つらい、耐えがたい、苦しい」など。それほどの悩みは、ブルーンを案じるヌレエフより当事者ブルーンに似つかわしい。

仏和辞書やラルース仏語辞典を読む限り、pénibleに「気の毒に思う」という訳語は似合わない。「感情の主はヌレエフ」という思い込みから、感情の内容は同情だと新倉真由美が信じて訳語を考案したのかも知れない。

不確定な個所 - ヌレエフとブルーンのどちらの周りのことか

"moins d'attention"(より少ない関心)の後に続く"autour de lui"(彼の周りで)を新倉真由美は「ヌレエフの周りで」と解釈している。私自身は「ブルーンの周りで」だろうと思っており、それは私の訳にも出ている。でも、新倉真由美が間違いだとは言い切れないので、解釈が違うと書くだけにとどめておく。

トールチーフとブルーンがかつての恋人だという示唆

『ヌレエフ』P.127-128:
彼女は周知のとおりバイ・セクシュアルなエリックがタタール人に惹かれ、彼女のロマンスが終わってしまうかもしれないと思ったが、自分が紹介したダンサーを二人とも失うとは想像していなかった。
Meyer-Stabley原本:
Même si elle sait que sa romance danoise est terminée, qu'Erik, bisexuel notoire, ne peut qu'être attiré par le Tartare, elle peine à comprendre qu'en présentant les deux danseurs l'un à l'autre elle les perd tous les deux.
Telperion訳:
自分のデンマークのロマンスに終止符が打たれたこと、周知のバイセクシャルであるエリックがタタール人に魅了される以外にないことは知っていても、2人のダンサーを互いに紹介することで2人とも失うと理解するのは、彼女には難しかった。

マリア・トールチーフの仲介でヌレエフとエリック・ブルーンが知り合い、互いに相手に夢中になったことについて。ヌレエフとブルーンが合う前、ヌレエフとトールチーフはきわめて親密な関係だった。

以前私は記事「トールチーフとバランシンやブルーンの縁がヌレエフを魅了」でこう書いた。

トールチーフとブルーンが以前恋愛関係にあったことは、ヌレエフとブルーンが出会う場面でほのめかされている。

そのとき頭にあったのが、ここで取り上げる文。しかしトールチーフとブルーンの関係がほのめかされているのは、あくまで原本のこと。新倉真由美の文では違うということに今さら気づいたので、補足のために取り上げる。

根拠1. ロマンスの相手はデンマーク人

原本の記述

原本からの引用で一番注目してほしい個所は"sa romance danoise"(彼女のデンマークのロマンス)。「デンマークの」が付いているのは、相手がデンマーク人のブルーンだから。

すでにトールチーフは"la compagne du danseur Erik Bruhn"と呼ばれている。先ほど触れた記事では私はcompagneを「愛人」としたが、ラルース仏語辞典によると、男女関係でのcompagneはもっと重い意味で、妻または内縁の妻の位置を占める女性。"sa romance danoise"を読んだとき、原本の読者はすぐにブルーンのことだと悟ることができる。

新倉本の記述

しかし新倉本では、danoise(デンマークの)が訳されず、単なる「彼女のロマンス」になった。前のページで当時トールチーフとヌレエフが恋人同士だったことが書かれている一方、ブルーンはトールチーフの「仲間」。新倉本の読者が「彼女のロマンス」から思い浮かぶのはヌレエフとのロマンスしかない。

根拠2. ロマンスは過去のもの

新倉本の記述

新倉本でさらに追い打ちをかけているのが、「彼女のロマンスが」に続くのが「終わってしまうかもしれない」だということ。つまりこのロマンスは現在進行中だとされている。トールチーフの現在進行中のロマンスといえば、やはり相手はヌレエフになる。

原本の記述

原本で「終わってしまうかもしれない」に当たる述語は"est terminée"(終わった)。未来形でもなく、推測もなく、断定している。ヌレエフとのロマンスをこの時点でそう表現するとは思えない。

原本を厳密に読むと、最初にトールチーフとブルーンの関係が触れられるとき、「トールチーフはバランシンのかつての妻だった」(elle a été la troisième épouse de George Balanchine,)の後に、"ainsi que la partenaire et la compagne du danseur Erik Bruhn"(ブルーンのパートナーそして伴侶なのと同様に)と続いている。トールチーフとブルーンが親密だったのは、トールチーフがバランシンの妻だったのと同様、もはや過去のこと。「終わった」という表現に合う。

Solway本の記述

なお、Diane Solway著『Nureyev: His Life』ペーパーバックP.186-7には、トールチーフがヌレエフと出会うドーヴィルを訪れる1か月前にブルーンと破局したとある。別れ際にトールチーフがブルーンに「亡命したロシア人に会いに行くから。彼が私の新しいパートナーになるのよ!」という言葉を叩きつけたという逸話もあり、その出典はブルーンの生前に出版された伝記『Erik Bruhn: Danseur Noble』(John Gruen著)。著者John Gruenはブルーンに取材しているので、ブルーンの談話だと思われる。

トールチーフの懸念の違い

ロマンスの相手が原本ではブルーン、新倉本ではヌレエフ。このため、引用前半でトールチーフが予想したことに違いが生まれた。

Meyer-Stabley原本
トールチーフと別れて一人身になったブルーンがヌレエフに恋をする
新倉本
ブルーンがヌレエフに惹かれた結果、自分とヌレエフのロマンスが終わるかもしれない

どちらの本でも、トールチーフになかなか分からなかったのは、ヌレエフとブルーンが相思相愛になり、トールチーフが弾き出されること。

原本のほうが理解しやすいトールチーフの心境

原本の場合、「一人身になったブルーンが魅惑的なヌレエフを次の恋の相手にするとは分かっても、まさかヌレエフがブルーンに応えるとは思わなかった」という流れになり、すんなり納得できる。ヌレエフはまだ亡命したばかりで、同性愛志向は周りに知られていなかったのだから。

ところが新倉本では、予想した「ヌレエフとのロマンスが終わるかも知れない」と、想像しなかった「二人とも失う」が同じことを指すように見える。「想像したのかしなかったのか、どっちだよ」と言いたくなる。「『かも知れない』と予想はしても、予想が実現するとまでは思わなかったのかも」とか、「ヌレエフとブルーンが両思いにならなくても、トールチーフとヌレエフの仲は気まずくなるのかも」とかいう論理を考え付くことは多分できる。でも原本がそうでない以上、こういう推測は骨折り損でしかない。

忍耐と献身はドゥース・フランソワだけの説明

『ヌレエフ』P.248:
ロンドンのモード・ゴスリング、ニューヨークのモニク・ヴァン・ヴーレン、トロントのリンダ・メイバーダク、サンフランシスコのジャネット・エスリッジ、そしてパリのドゥース・フランソワ。彼女たちはひたすら天使のように耐え献身的に尽くした。
Meyer-Stabley原本:
Maud Gosling à Londres, Monique Van Vooren à New York, Linda Maybarduk à Tronto, Jeanette Etheridge à San Francisco et enfin Douce François à Paris, qui fera preuve d'un dévouement total et d'une patience d'ange.
Telperion訳:
ロンドンのモード・ゴスリング、ニューヨークのモニク・ヴァン・ヴーレン、トロントのリンダ・メイバーダク、サンフランシスコのジャネット・エスリッジ、そして最後にパリのドゥース・フランソワ。彼女は心からの献身と天使の忍耐を発揮する。

ヌレエフの身辺の世話をしてくれる女性たちについて。

文末の関係詞"qui fera preuve d'un dévouement total et d'une patience d'ange"(心からの献身と天使の忍耐を発揮する)にある述語feraは、動詞faireの三人称単数形の活用形(ちなみに時制は直説法単純未来)。つまり、この関係詞が修飾する人物は一人。この場合は、列挙された人名のうち最後の一人であるドゥース・フランソワ。この文に続いて、ドゥースとヌレエフの関係が長めに書かれるのだが、「献身と忍耐を発揮する」はその前置きとなっている。

小さなミスではあるが、ヌレエフがこれらの女性をすべて振り回したとは限らないので、一応書いておく。なかでもモニク・ヴァン・ヴーレンは記事「モニク・ヴァン・ヴーレンがヌレエフに及ぼした影響」で触れているが、天使のように耐えるイメージではなさそうに思える。

テネシー・ウィリアムズの言葉が事実とは限らない

『ヌレエフ』P.204:
アンディ・ウォーホルが催したパーティでルドルフと出会ったテネシー・ウィリアムスは一夜を共にした。
Meyer-Stabley原本:
Tennesse Williams qui rencontrera Rudolf lors d'une party organisée par Andy Warhol à son studio de la 47e Rue Est, sera, lui, tellement séduit par le personnage qu'il se vantera même d'avoir passé la nuit avec lui.
Telperion訳:
アンディ・ウォーホルが東47番街のスタジオで企画したパーティでルドルフと出会うテネシー・ウィリアムズは、この人物にあまりに誘惑されたため、一夜を共にしたとまで自慢することになる。

ウィリアムズの話への信頼を留保した原著者

「テネシー・ウィリアムズがヌレエフと一夜を共にした」という話の出所はウィリアムズ自身。しかしその話しぶりをMeyer-Stableyが"se vanter"と表現しているのが曲者。"se vanter"には「自慢する」の他に「ほらを吹く」という意味もある。つまり、自慢の内容が事実でもそうでなくても使われる言葉。Meyer-Stableyはウィリアムズの話が本当でないという可能性を否定していない。

ウィリアムズの話を事実と断定した新倉真由美

新倉真由美は「ウィリアムズが自慢した」をばっさり省き、揺るぎない事実のように書いた。しかし、原著者がわずかに疑問を残す書き方をしているものを「膨大なデータに裏付けられた事実」(訳者あとがきより)のように見せるのは、「バレエ界にとり貴重な記録」(訳者あとがきより)より、薄弱な根拠をもとに大げさな記事を書くタブロイドに似合う。

「自慢した」より信頼性のありそうな書き方だったとしても、「誰かがこう言っていた」を「こうだった」と言い換えていいかどうか。私は疑り深いほうなので、誰が言ったのか、多くの人が言ったのかどうかによって、その話を信じるかどうかは変わる。信じるか疑うかは読者によって違うだろうか、どちらにしても話の出典は重要な要素。せっかく名を挙げて書いてあるのを省いてもらいたくない。

おまけ1 - 別なヌレエフ伝記も断定を留保

Diane Solway著『Nureyev: His Life』のペーパーバックP.322にも、ウィリアムズとヌレエフに性的関係があったかもしれないという話が書かれている。

Williams had recently met Nureyev in London and had hinted to Persky that he and Nureyev had had a sexaul encounter in London.

ウィリアムズは最近ロンドンでヌレエフと会っており、二人がロンドンで性的な出会いを果たしたとパースキーにほのめかした。(Telperion訳)

“I hope for Tennessee's sake it was true,”Persky said later.

「テネシーのためにも本当だったらよいですね」とパースキーは後に語った。(Telperion訳)

パースキーとはウィリアムズとも仕事をしたプロデューサー、レスター・パースキー(Lester Persky)。Solwayはパースキーにインタビューしている。真偽に立ち入ることなく、一つの証言として提示するのにとどめている。

おまけ2 - ヌレエフとウィリアムズが出会った場所は不確定

上の引用を読めば分かるとおり、二人はMeyer-Stabley本だとニューヨークで、Solway本だとロンドンで出会っている。Solway本によると、ウィリアムズがロンドンでヌレエフと会った後、ウィリアムズとパースキーの発案でウォーホルが東47番街のスタジオ、ファクトリーで多分1965年にパーティーを開いた。Meyer-StableyとSolwayのどちらが正しいのかは私には判断できないが。

更新履歴

2014/9/30
Meyer-Stableyについての記述と新倉真由美についての記述を分ける

バリシニコフによる弔辞は素直に訳せば十分なのに

『ヌレエフ』巻頭:
彼は、朴訥で天涯孤独な男性である一方偶像として、カリスマ性と近づきがたい尊大さを持ち合わせていた。
Meyer-Stabley原本:
Il avait le charisme et la simplicité d'un homme de la terre, et l'arrogance intouchable des dieux.
Telperion訳:
彼は地上の人間のカリスマと単純さ、そして神々の触れるべからざる傲慢さを備えていました。

バリシニコフが寄せた弔辞。『Noureev: The Life』(Julie Kavanagh著)のペーパーバックP.696によると、ヌレエフの葬儀のとき文化大臣ジャック・ラングが朗読したという。

原文の構成はきわめて単純

原文は主語+述語+目的語という、きわめて単純な構成の文。目的語は次の2つ。

  • le charisme et la simplicité d'un homme de la terre (地上の人間のカリスマと単純さ)
  • l'arrogance intouchable des dieux (神々の触れることができない傲慢さ)

ちなみに、先に書いたKavanagh本には、この言葉が英語で載っている。バリシニコフはフランスよりアメリカとの縁が深いので、バリシニコフ本人が語ったのは英語版なのだろう。フランス語を知らなくても原文の単純さを実感しやすくするため、こちらも引用する。

He had the charisma and the simplicity of a man of the earth and the untouchable arrogance of the gods.

原文からあちこちずれた新倉訳

新倉真由美は原文にないことを訳文にずいぶん盛り込んでいる。

  • 「天涯孤独」に当たる単語は原文にない。まさか"de la terre"(地上の)を「天涯孤独な」と訳したのだろうか。
  • 「偶像」に当たる単語idoleは原文にない。一方、dieux(神々)に当たる言葉が訳文にないので、あるいは新倉真由美はdieuxを「偶像」と訳したのかも知れない。しかし、偶像とは神をかたどって作られた像であり、神自身ではない(だからこそ偶像を禁じる宗教が存在する)。
  • 原文では、カリスマ性は人間のもの、尊大さは神々のもの。しかし新倉真由美の訳では2つの特性が同じもの(偶像?)に属するような扱い。

あまりに単純な表現なので、新倉真由美は自分好みの凝った表現に置き換える誘惑に駆られたのだろうか。しかし、これでは原文と訳文が同じことを言っているように見えない。

同じ文は別個所ではまだまともに訳されているのに

バリシニコフのこの言葉は、12章の最後でもう一度引用される。このときの新倉真由美訳は次のとおり。

『ヌレエフ』P.215:
彼はカリスマ性と愚直なほどの純朴さを備えて地上に降りてきた人間で、近づきがたい神々の尊大さも持ち合わせていました。)

私なら「地上の人間のカリスマと単純さ」を「カリスマと単純さを備えて地上に下りてきた人間」とは言い換えない。しかし少なくとも新倉訳は後半は正しいし、前半もあれほどは原文から離れていない。そのまま訳すのではなく表現を工夫してみるにしても、このくらいが限度ではないだろうか。

更新履歴

2016/5/13
諸見出しを変更、最後の見出し下を加筆
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プロフィール

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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