伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2014.06.13
感動の渦から外された近くの観客
2013.10.16
賛辞の対象は映画全体でなく主演男優ヌレエフ
2013.05.05
バレエ音楽軽視の現状を変えるため
2013.01.24
シンデレラは最初から美しい
2012.12.13
踊りと映画の比較が経験談から一般論に

感動の渦から外された近くの観客

『ヌレエフ』P.303:
天井桟敷の最前列からブラボーという声と拍手が聞こえると、花束が舞台の上に投げられ散らばった。
Meyer-Stabley原本:
Des premiers rangs au poulailler, tandis que crépitent les bravos, des fleurs sont jetées et jonchent le plateau.
Telperion訳:
最前列から天井桟敷まで、喝采が弾けた一方、花が投げられ、舞台を覆った。

1992年10月8日、ヌレエフ振付「ラ・バヤデール」全幕初演後のカーテン・コール。すでにヌレエフは病が重く、観客の前に姿を見せるのはこれが最後となった。

仏文和訳

文の最初の"Des premiers rangs au poulailler"の中にあるdesは"de les"の、auは"à le"の縮約形。分かりやすさのために縮約形を元の2語に戻すと、"De les premiers rangs à le poulailler"となる。これは"de A à B"(AからBまで)という形をしている。だから「天井桟敷(le poulailler)の最前列(les premiers rangs)から」でなく「最前列から天井桟敷まで」。

感動が広がった範囲の差

このカーテン・コールは、この本の中でも有数の胸をゆさぶられるシチュエーション。「パリ中が彼に残された時間が多くないことを知った」(新倉本P.304より)は多分誇張ではない。引用直前の文は、新倉真由美訳では「舞台裏でも舞台上でも、すべての人の顔に涙が流れていた」。舞台裏と舞台上なのだから、これは「ラ・バヤデール」制作にかかわったバレエ関係者たちの反応。そして次の文で書かれるのが、観客の反応。

新倉真由美の文には、ごくわずかながら違和感があった。なぜ、ブラボーの声がかかるのが、天井桟敷の最前列というはるか遠くからなのだろう。「すべての関係者が涙を流した」に続くべき文は、「すべての観客が喝采した」だろうに。Meyer-Stableyは厳密な事実よりも場面の盛り上げを重視するライターだと私は思うし、近くの観客がブラボーと叫ばなかったというのは事実ですらなさそう。でも、原文に目をやったことはあるものの、しっかり訳そうとはしなかったため、舞台の一番近くから一番遠くまでの観客が喝采しているということに、私は今まで気づかなかった。正直、手抜かりだった。

実は、関係者に関する文は、原文だと単に"sur les visages"(顔の上に)であり、「すべての人の」は新倉真由美による追加。しかし、関係者の反応が少し誇張されたからといって、観客の反応がかなり狭められたことは相殺できないと思う。普通の公演後ならまだしも、この公演については大目に見たくない。

賛辞の対象は映画全体でなく主演男優ヌレエフ

『ヌレエフ』P.240:
美しさ、ユーモアさらに節度、自由、自然がある。心地よく実に斬新な映画だ!」
Meyer-Stabley原本:
Beauté et humour, donc, mais aussi sobriété, liberté, naturel. Sympathique : autre nouveauté ! »
Telperion訳:
話を戻して美しさとユーモアもあるが、節度、自由もあり、自然だ。好感を持てる。またも斬新だ!

ジャーナリスト、シルヴィ・ド・ニュサックによる映画「ヴァレンティノ」のヌレエフ評より、記事「人物ヌレエフよりダンサー、ヌレエフを評価」の直後の部分。2つの記事の引用部分を続けて読むと分かるとおり、新倉真由美訳では美しさ、ユーモアなどは「実に賞賛すべきこの作品の中に」ある、つまりこれらの長所は映画のものとされている。原文ではこれらの長所もヌレエフのものとして語られているということに、先ほどの記事では少ししか触れなかったので、この記事でもっと説明しようと思う。

列挙した長所を持つのは

「美しさとユーモア(Beauté et humour)」の後にあるdoncは、「(結論・結果を導く)それゆえ、だから」という意味で使われることが多い。しかしそれ以外に、「(話を元に戻す)さて、ところで」という意味もある。そこでニュサックによる評の前のほうを読み返すと、実際に美しさとユーモアが話題になっている。

美しさ
後光とかヒップの筋肉とかいう言葉を使い、裸体でターバンという姿でもこっけいにならないと書いている。
ユーモア
映画のヌレエフにあるユーモアに、「ビッグニュース」「ロマンチックバレエやクラシックバレエでは滅多に使わない」と希少価値を見出している。

「話を戻して」という意味があるdoncとともに並べられた"Beauté et humour"とは、その少し前に話題になっていた俳優ヌレエフのそれだと推測してよい。だから、その次にさらに列挙される"sobriété, liberté, naturel"(節度、自由、自然な)もやはり、映画でなくヌレエフのものだろう。

新倉真由美が「この作品」と訳した代名詞leは、先ほどの記事で書いたとおり、ヌレエフを指す。ド・ニュサックは評の最初からヌレエフについて語っており、映画自体に触れている部分は見当たらない。ド・ニュサックはルモンド紙で舞踏記事を多く書いていたらしい(ルモンド紙のサイトでSylvie de Nussacを検索すると分かる)。ダンサー、ヌレエフの別な顔を見る気にはなっても、映画そのものの評論には踏み込まなくても不思議はない。

斬新なこと

この記事の引用の最後にある"autre nouveauté !"(別の斬新さ)は、コロンで区切られる前にあるsympathique(好感を持てる)について説明している。「別の斬新さ」というのは、前のほうでヌレエフのユーモアを珍しいと評したことを受けている。斬新なのはユーモアだけではなかったということ。私が前の記事を読んで思うに、ド・ニュサックにとってダンサーのヌレエフは賛嘆の対象であり、舞台の外のヌレエフはあまり好きでなく、どちらのヌレエフにも温和な好意は抱いていないのではなかろうか。

バレエ音楽軽視の現状を変えるため

『ヌレエフ』P.308:
音楽的に言えばバレエのレパートリーは限られているので奇抜な考えでもないのだが、ルドルフは知名度と才能を生かし、指揮者への転職を考えていた。
Meyer-Stabley原本:
Tout cela n'est certes pas étranger au fait que le répertoire du ballet est plus limité, musicalement parlant. Rudolf, avec sa célébrité et son talent, pensait être en position de changer cet état de fait.
Telperion訳:
確かにこういったことすべては、音楽的に語るとバレエのレパートリーの方が限られているという事実と無縁ではない。ルドルフは自分の知名度と才能を用い、この状況を変えられる立場にあると考えた。

晩年のヌレエフが指揮者としての活動を始めた動機について、「その上本気でバレエの発展に寄与したいと考えていた」(訳本P.296)に付いた注の一部。

ヌレエフが変えたかったこと

"être en position de ~(不定詞)"は「~できる立場にある」というイディオムなので、ヌレエフが考えたことである"être en position de changer cet état de fait"は、「この"état de fait"を変えられる立場にある」となる。

"état de fait"は私には仏和辞書で見つからず、原文で解釈が最も難しい。étatに「職業」という意味があるので、新倉真由美は"de fait"(事実の)を省き、ヌレエフが変えることを考えたのは自分の職業だと思ったらしい。しかし、étatには「状態」という意味もある。そして実は、"état de fait"という言い回しはラルース仏語辞典に載っている。

État de fait
réalité, situation qu'on ne peut que constater.
現実、認めるしかない状況 (Telperion訳)

また、Meyer-Stableyは他の場所でもこの言い回しを使っている。"état de fait"の使い方を分かりやすくするために原文の表現をなぞった私の訳と共に、訳本と原本を引用する。

『ヌレエフ』P.161:
異端児ジャン・バビエはフランスに依存していたため状況は旧態依然としたままだった。
Meyer-Stabley原本:
l'extraterrestre Jean Babilée reste trop confiné à la France pour changer cet état de fait.
Telperion訳:
宇宙人ジャン・バビレはこの状況を変えるには、フランスにあまりに閉じこもったままだった。

"cet état de fait"は前の文とのつながりから、その前に書かれた状況を指すと推測でき、新倉真由美もそう解釈している。だから問題の部分でも、"cet état de fait"はその前に書かれた状況を指すと推測できる。直訳は「この事実の職業」でなく「この事実の状態」だと見なすべき。

バレエのレパートリーの限定と関係あること

最初の文は私の訳がほぼ直訳であり、解釈する上で最も重要なのは、主語"Tout cela"(これのすべて)が指すのが何かということ。多分新倉真由美は"Tout cela"が次の文の内容、「ルドルフは~を変えることを考えた」を指すと解釈している。しかし以下の理由から、前の文の内容を指すと見なす方が、原文のすべてを尊重したまま自然な論理の文を作れる。

  • celaは前の文の内容を指すほうが多い言葉。
  • 2番目の文が「ルドルフは前の文で書いた状況を変えることを考えた」なのに、最初の文が「次の文で書くことは、バレエのレパートリーのほうが限定されている事実と無縁ではない」だと、何を言いたいのか意味不明になる。
  • 引用部分の前にある文は、簡単に言うと「オーケストラと指揮者がバレエに熱心でないという印象をヌレエフが持っていた」。最初の文である「バレエのレパートリーのほうが限定されているという事実と無縁ではない」という説明にも合うし、2番目の文でいう「この状況」としても合う。

シンデレラは最初から美しい

『ヌレエフ』P.263:
汚らしい少女は登場から寂しげな子ではないと解釈しました。なぜなら彼女はいつの日か花開き、より美しくなると夢見ているからです。
Meyer-Stabley原本:
Pour moi, dès le début, la souillon n'est pas triste car elle vit dans ses rêves qui la subliment et la rendent plus belle.
Telperion訳:
私にとって最初から、汚らしい少女は哀れではありません。夢の中に生き、その夢によって昇華され、より美しくなっているからです。

エリザベット・プラテルが語るヌレエフ版のシンデレラ。"elle vit dans ses rêves qui la subliment et la rendent plus belle"の直訳は「彼女は彼女を昇華し、彼女をより美しくする夢の中で生きている」。「~という夢」なら"rêves que ~(節)"とか"rêves de ~(不定詞)"という形になりそうなものだが、ここでは関係代名詞quiが使われているため、夢そのものが彼女をより美しくするというのがポイント。夢が実現するかどうかと無関係に、夢見ているその時点のシンデレラがすでに美しさを増している。

ヌレエフ版「シンデレラ」を初演したギエムは、「かわいそうな境遇に見えない」と言われることもある。プラテルが演じたシンデレラもそうかも知れない。それは意図どおりとプラテルは言っているわけで、興味深い解釈だと思う。

踊りと映画の比較が経験談から一般論に

『ヌレエフ』P.237:
映画の俳優たちはそういう状況に充分慣れてないかもしれませんが、私から見れば映画を作るのは踊るより一〇〇〇倍簡単に思えます。バレエでは精神的より肉体的にものすごい緊張に耐えることを要求されますから。
Meyer-Stabley原本:
Je crois que les acteurs de cinéma ne sont pas suffisamment habitués à ce type de difficulté. Pour ma part, en tout cas, faire ce film m'a semblé mille fois plus facile que de danser, que de supporter cette formidable tension, tant physique que morale, que la danse exige.
Telperion訳:
映画の俳優はこの種の困難に十分慣れていないのだと思います。私としてはいずれにせよ、踊るよりも、踊りが要求する肉体的にも精神的にもとてつもないこの緊張に耐えるよりも、この映画を撮るのは一千倍も簡単に思えました。

ヌレエフが「監督が怒鳴ることがあったが、印象には残っていない」と語った後に続けた談話。

ヌレエフが語る経験談

  • ヌレエフが簡単だと言ったのは、"faire ce film"(この映画を撮る)こと。
  • 「思えました」(a semblé)の時制は直説法複合過去。つまり過去に思ったことを語っている。

このことから、ヌレエフが「踊るより簡単に思えた」というのは、自分が参加した「ヴァレンティノ」について撮影当時考えたことだと分かる。

「この映画を撮るのは簡単に思えた」という言葉自体は、もしかしたら「簡単だったとか言うわりには出来は良くないけどね」といった反感を買うかも知れない。しかし、「この種の困難」(ce type de difficulté)とは監督に怒鳴られることなので、ヌレエフが言う「この映画を撮るのは簡単だった」とは、「怒鳴られてもストレスを感じずに撮影できた」という程度の意味に思える。

新倉真由美が語る一般論

新倉真由美の訳は「この映画」が「映画」になり、「思えました」が「思えます」になったというそれだけのことで、ヌレエフの語りが一般論になっている。つまり、「ヴァレンティノ」に限らずどの映画の制作も、踊るより簡単という主張になる。私には映画制作に伴う苦労を過小評価、ひいては愚弄しているように聞こえる。

その他の小さなこと

  1. croireは「信じる、思う」。「かもしれない」よりは確信の度合いが強い。
  2. "tant A que B"は「AもBも」。Aに当たるphysique(肉体的な)とBに当たるmorale(精神的な)は同格。
2014/3/3
原文についての記述と訳本についての記述を分ける
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プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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