伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

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マーキュリーとの恋愛は本当? - 怪しすぎる証人
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マーキュリーとの恋愛は本当? - 怪しすぎる証人

あまりに検証に堪えない噂は扱ってほしくない

確証に欠ける噂話を耳に入れるのは、必ずしも嫌いではありません。でもMeyer-Stableyが『Noureev』でヌレエフとフレディのロマンス説について書いた文は、「事実ともそうでないともつかない話」のレベルには到底達していません。

フレディ逝去にヌレエフが付き添ったのは真実ではない
前回書いたことで十分でしょう。マーキュリー逝去当時の様子はあちこちで書かれています。文献に少しでも当たれば、「そのときヌレエフがそばにいた」とはとても書けないはず。ヌレエフは見舞いすらしていなさそうです。
二人の証人の身元が不明過ぎ
たとえば「ヌレエフとフレディがデートしているのを見た」といった目撃談なら、発言者が無名の一般人でも、本当だという可能性は否定できません。でもYuri Matthew RyuntyuやRetwick Whitakerは、「ヌレエフが周囲に隠していたフレディへの想いを特に自分に打ち明けた」と主張しています。それが本当であるためには、発言者がヌレエフと深い関係を築くことが絶対に必要なはず。でも私が調べた限り、そう信じてよい材料はまったく見つかりません。

ヌレエフもマーキュリーも話題性は高いのだから、言われている話をすべてうのみにできないのは当然です。Meyer-Stableyも、仕入れた話をすべて事実としては扱っていません。しかしマーキュリーとの噂で怪しげな証人にすがりつき、フレディの身近に実際にいたピーター・フリーストーンやジム・ハットンより優先するとあっては、Meyer-Stableyの真偽判定力を頭から疑ってかからざるを得ません。「ヌレエフはフレディが逝去するときそばにいた」なんてクイーンファンに話したら、死ぬほど馬鹿にされても文句を言えないのでは。

せめて、Meyer-StableyはRyuntyuが読むに堪えない文を書き散らしているのを知らなかったことを願いたいものです。「ヌレエフは心の目でフレディの最期を見届けたと私に言った」という電波発言を知ったうえで、さも本当の看取りのように取り繕ったとしたら、それはねつ造の領域に達しています。

正体不明なRetwick Whitaker

Meyer-Stableyが取り上げた証人の一人Retwick Whitakerは、ヌレエフからこう書かれた手紙を受け取ったそうです。

『ヌレエフ』P.182:
「その日は雨が降っていて、私はフレディのいた大きなホールで泣きました」
Meyer-Stabley原本:
« Il pleuvait et j'etais là à pleurer Freddie dans le grand hall »
Telperion訳:
「雨が降っており、私は広いホールでフレディを悼みました」

ヌレエフがいたというlà(そこ)がどこのことか、私には分かりません。でも、自分の家のホールで遠くのフレディをしのんでいるという可能性を捨てられないと思います(つまり私は「フレディのいた」という新倉訳を疑っています)。だから、Ryuntyuに比べれば、Whitakerの発言には現実味があります。

ところがこのRetwick Whitakerが何者なのか、今に至るまでさっぱり分かりません。

  1. Retwick Whitakerをgoogleで引いても、まったくヒットしません。似た名前の提案すらありません。
  2. ヌレエフの伝記の中で権威が高いとされる『Nureyev: His Life』(Diane Solway著)にも、ヌレエフ財団が公式に推している『Nureyev: The Life』(Julie Kavanagh著)にも、索引にRetwick Whitakerという名前はありません。
  3. Retwick Whitakerに関するMeyer-Stableyの説明は、l'Australien(オーストラリア人)のみ。

Meyer-Stableyは人名をよく間違えるので、ほんとうはRetwick Whitakerという名前ではないのかも知れません。でも、「本当はこの名前?」と提案したがるgoogleが無反応ということは、やはり一般には知られていないのでしょう。そういう人の身元は伝記作者が説明するべきと思います。ここまで身元不明な人にヌレエフから深い心情を打ち明けられたと言われても、なかなか信じがたい。

やっぱりうさんくさいYuri Matthew Ryuntyu

Yuri Matthew Ryuntyuについては、前回触れた『ROCK IDOL & SUPERSTAR: Freddie Mercury and Rudolf Nureyev』抜粋を読むだけで、信用する気をなくすのに十分でした。でもせっかくだからもう少しだけ書きます。

Yuri Matthew Ryuntyuは自分のサイト(http://ryuntyu.com.au/)からリンクされた謎のページ(http://www.proza.ru/2008/08/11/225)で、ヌレエフからの委託でさまざまな本を出版したと言っています。企画名は"The Russian Cultural Heritage Preservation"とか、"The Rudolf Nureyev Intellectual Heritage: Russia –XX Century"とか、移り変わっているようですが。

不思議なのは、そのプロジェクトにヌレエフの財団が関わっている様子が見えないことです。ヌレエフは自分の財産の大半を財団に遺したのだから、費用は財団が出すほうがよほど予算が潤沢になるはず。何も1992年にサンクト・ペテルブルクでこっそり手筈をととのえなくても。

なお、ヌレエフは1992年3月にサンクト・ペテルブルクにいました。でも体調が悪化し、重体でパリに搬送されています。ドゥース・フランソワやニネル・クルガプキナの目を盗んでRyuntyuと打ち合わせなんて、大変そうですね。

マーキュリーとの恋愛は本当? - オカルト証言

Meyer-Stableyの『Noureev』には、ヌレエフといろいろなセレブの恋愛関係の話も出てきます。ほとんどの場合、関係はごく一時的なものらしく、真偽ははっきりしません。私は信じるとも信じないともつかない態度でいます。でもフレディ・マーキュリーの名前にだけは、そういう生ぬるい気分になれません。

ヌレエフがマーキュリーを看取ったという説明

Meyer-Stableyはヌレエフとマーキュリーの関係にそれなりの行数を割いています。そのなかにこうあります。

『ヌレエフ』P.183:
一九九一年マーキュリーが逝去したとき、ヌレエフは彼に寄り添っていた。
Meyer-Stabley原本:
Lorsque Mercury décédera en 1991, Noureev sera à ses côtés.

誰がそう言ったのかははっきり書いてありません。でも、Meyer-Stableyがヌレエフとマーキュリーの関係の証人として挙げた名前は次の2つ。

Yuri Matthew Ryuntyu(新倉本ではユーリ・マチュー・リュンチュ)
1999年6月22日付のDaily Express紙で、ヌレエフとマーキュリーが情熱的な関係だったと証言。
Retwick Whitaker(新倉本ではレトウイック・ホワイトカー)
マーキュリーの死を悲しむヌレエフの手紙を受け取ったと証言。

逝去つながりということで、「逝去の時ヌレエフが寄り添っていた」の情報源はWhitakerかなと私は思います。

反証のほうがすぐ見つかる看取り説

でもクイーン関係で調べると、そういう話がまったく出てこないことは、すでに「三日月クラシック」のミナモトさんが「続・フレディとヌレエフ」で書いたとおり。私も追加します。

2011年9月9日付のDaily Mail紙の記事
歌手Dave Clarkがフレディをしのびます。マーキュリーが世を去ったとき同じ家にいたのは、Clarkの他にはJoe Fanelli、Peter Freestone、Jim Huttonとあります。
『フレディ・マーキュリーと私』(ジム・ハットン著、島田陽子訳、ロッキング・オン)
フレディの恋人による回想。ここでも同じ家にいたのは上と同じ顔触れのようです。ちゃんと読んでいないので、「ジョー」がJoe Fanelliのことだと断定できませんが。

直接読んだRyuntyuの看取り説

さて、もうだいぶ前になりますが、ひょんなことからYuri Matthew Ryuntyuのサイトを見つけました。在住するオーストラリアで2009年に『ROCK IDOL & SUPERSTAR: Freddie Mercury and Rudolf Nureyev』を出版したそうです。私が初めてRyuntyuのサイトを訪れたときは、その本の一部をPDFファイルとして読むことができました。ええ、びっくりしました。あまりのうさんくささに。

残念ながら、今ではRyuntyuのサイトからその抜粋は読めません。でもファイルは手許にダウンロードしてあるので、少し引用します。抜粋全文に興味がある方は、うまく検索すれば、丸ごと転載したブログに行きあたるかも知れません。広く紹介したい内容ではないし、著作権的に真っ黒なので、ここにはURLを載せませんが。

マーキュリー逝去前日の1991年11月23日、ヌレエフがオーストラリアにいるRyuntyuにパニック状態でかけてきた電話で言ったこと。

I feel telepathically that Freddie is at the threshold of death. This is about to happen.

テレパシーでフレディの死が近いことを察知したって…

There is no face of mine on the silver amalgam of my Venetian mirror – there is the face of my Freddie coming out of it.

自宅の鏡の中に自分でなくフレディの顔が見えたと。

It seemed he was calling from one of his islands...

マーキュリー逝去が報じられた後にヌレエフからかかったという電話の発信元は、どこかの島。リ・ガリかサン・バルテルミーかは分かりませんが。

At 7 pm of November 24, he … passed out.

ヌレエフの言葉から。ロンドンにはいなかったのに、最期をしっかり見届けたと。

オカルト看取り説に出くわした脱力感

そうか、ヌレエフは超自然的な力でフレディを見たから、その場にいた人たちは気づかなかったのか…って、当然のように受け入れろというんですか、その話。信じる前に、ヌレエフかRyuntyuの精神状態を疑うことに、私はまったく気が咎めません。

ま、疑うなら断然Ryuntyuのほうですね。Meyer-Stabley著『Noureev』、そしてDiane Solway著『Nureyev: His Life』や Julie Kavanagh著『Nureyev: The Life』を読む限り、当時のヌレエフが周りに正気を疑われたようには見えません。一方、Ryuntyuは地の文でも、Ryuntyuが描写するヌレエフと同じくらい興奮かつ混乱しているようです。

I knew. I know. I am sure. The next will be … Rudy NUREYEV.
知ってた。知ってる。確かだ。次は…ルディ・ヌレエフだ。(Telperion訳)

いちいちこういう大げさな書き方。読んでいて疲れます。

上に書いた通り、Meyer-Stableyが「彼に寄り添っていた」説をRyuntyuの証言から取ったとは限らないでしょう。1999年6月22日付のDaily Express紙ではRyuntyuはもっとまともに話していて、Meyer-Stableyは「いい証言が見つかった」と無邪気に採用したのかも知れません。でも、ただでさえ「いったいどこから看取り説が出たのさ」と疑わしく思っているところにあんなオカルト説が出てくるのでは、まともに考えるのがあほらしくなります。頭ごなしに否定してはいけないのかも知れません。でも、世間一般でもオカルト話は通常の証言と同等には扱われないものでしょう。

アリソン・ワットが描いた皇太后は原著者の説明と違う

現実に即した訳文かどうかの確認に向けて

記事「皇太后論の自由すぎる創作」ですでに、新倉真由美の訳が正しくないという説明は済んでいます。しかしそれだけでは物足りない。私が提案した訳をもう一度載せます。

アリソン・ワットは大胆にも、君主国で最も人気のある人物の一人を、王家の属性でなく、きらめく宝石と果樹園に似た帽子で表現していたのだ!

構文解析は問題ないし、単語の辞書的意味も踏まえています。でもそれだけでなく、実際の出来事をきちんと説明しているという確認もしたいものです。訳しているのは語学試験用の創作でなく、実際にあったことの説明なのですから。

私は問題の文を「アリソン・ワットは皇太后(「君主国で最も人気のある人物の一人」)の肖像画を描き、そのとき宝石と帽子を用いた」と解釈しました。だから実際にそういう絵があることを確認すればよいわけです。

アリソン・ワットの絵は帽子や宝石を使っていない

google画像検索が発達した今、適当なキーワードで検索すれば、肖像画を探すのは簡単です。ところが、google画像検索で真っ先にヒットした絵はこれでした。

次の2点は私の推測どおりです。

  1. 画家アリソン・ワットが描いた皇太后の肖像画は実在する。
  2. 絵の制作は1989年。問題の文の直前で、Meyer-Stableyがワットの件を「皇太后の生誕89年記念を機会に『スキャンダル』が起きた」と切り出していることと一致する。

しかしこの絵の皇太后は帽子をかぶっていません。宝石こそ身につけていますが、きらびやかには見えません。「きらめく宝石と果樹園のような帽子を用いて表現した」という説明はこの絵に合いません。

原著者への疑念に帰着

この事態をどう説明すればよいか。いくつかの選択肢があります。

  1. アリソン・ワットは上記の絵以外に、宝石と帽子を身につけた皇太后も描いていた
  2. 「皇太后を表現した」は絵の制作のことではない。たとえば「皇太后は宝石と帽子が印象的な方でした」というように言葉で表現したのかもしれない。
  3. Meyer-Stableyは上記の絵のことを言いたかったが、絵の内容を勘違いした

肖像画は何枚もなさそう

1番目はまずないでしょう。リンク先の説明にあるとおり、ワットは"John Player Portrait Award"の一等賞を獲得した褒賞として皇太后の肖像画制作を委託されました。王室の肖像画家として迎えられたわけではないので、何枚も皇太后を描く機会はないはず。

ワットは帽子や宝石に興味がない

原文を尊重するなら、私は2番目を採用するでしょう。でも、スコットランドの新聞ヘラルド紙の1989年8月4日の記事"Tale of the Queen Mother and a teacup"が目に留まりました。これを読むと、2番目もありそうにありません。

Right from the start Watt's main objective was to produce an informal portrait, ''as ordinary as possible'' bearing in mind the splendours of the surroundings.
最初からワットの主な目的は、周りの壮麗さを念頭に置きつつ「できるかぎり普通の」非公式な肖像画を制作することだった。
"I requested that she didn't wear one of her hats, and as little jewellery as possible. There was a long silence on the other end of the phone!" In the event the Queen Mother went along with Alison's request.
「私は皇太后に帽子をかぶらず、宝石をできる限り身につけないように頼みました。電話の向こう側では長い間無言でした!」。結局、皇太后はアリソンの要請に協力した。
And her hair is brilliant the way the waves bounce. It's a shame she often hides it with those 1930s hats.
それに髪は波打つさまが見事です。1930年代の帽子で隠すことが多いのが残念です。(Telperion注: ワットの談話より)

こんなワットが、絵画であれ談話であれ、帽子や宝石で皇太后を表現するとは信じられません。

Meyer-Stableyのミスは他の選択肢よりありそう

3番目を選ぶのはよほど他に説明のしようがない場合に限るべきです。自分の読解ミスをごまかすために原文に責任を押し付けるのはみっともないですから。でも今回、私はMeyer-Stableyの文を疑わずにはいられません。

ワットの絵は皇太后を王族らしく祭り上げるようなタッチでないので、賛否両論を呼んだだろうと想像できます。だからMeyer-Stableyはワットの絵を「スキャンダル」として取り上げたのでしょう。でもワットの絵がどういうものかはよく頭に入っておらず、「王室の属性でなく」の後に余計なことを書いたのかも知れません。

レバノンでなくイランの人質事件

国が違う別の人質事件

『バッキンガム宮殿での日常生活』P.80に出てくる、サッチャーが首相当時関わったとされる「レバノン人質事件」。原書では"l'affaire des otages du Liban"。新倉真由美ならずとも「レバノン人質事件」に似た訳語を当てるでしょう。

しかしレバノン人質事件とは何かをgoogle検索で調べたところ、どうもそれらしき事件がヒットしません。かわりに浮上したのがこれでした。

英語のほうがはるかに詳細ですが、概要を知るなら日本語で十分でしょう。サッチャー首相時代初期の1980年4月30日に発生し、5月5日にSAS突入で解決した占拠事件です。

最寄りの図書館にあった『サッチャー回顧録[上] ダウニング街の日々』(マーガレット・サッチャー著、石塚雅彦訳、日本経済新聞社)P.117-119にも記述があります。この上下巻の目次には小見出しまで載っていますが、レバノン人質事件があれば扱いそうな見出しは、駐英イラン大使館の事件が含まれる「中東危機」だけ。「レバノン人質事件」は本当は「イラン人質事件」なのでしょう。

証言を引用する姿勢の甘さ

「レバノン人質事件」は、チャールズ皇太子とサッチャーの関係が良くなかったという文で取り上げられます。どこぞの関係者が「皇太子は事件でのサッチャーの対応に批判的だった」と語り、それをMeyer-Stableyがどこぞの文献で見つけて本に取り入れたという形でしょう。

当時のチャールズがレバノンとイランを間違えたとは思えません。Meyer-Stableyがイランでなくレバノンを挙げた理由は、次のどちらかのはず。

  • 関係者がチャールズの言葉をうろ覚えのため国名を間違えて、一次文献著者もMeyer-Stableyも間違いをそのまま本に書いた
  • Meyer-Stableyは関係者証言をいい加減に読み、国名を間違えた

関係者のうろ覚えはいかにもありそうなことです。『ヌレエフとの密なる時』原著者のプティだって、「母に会いにソ連に行ったヌレエフがキーロフ劇場を再び訪れた」などと書いていますから。一次情報源の言葉をそのまま引用するのは、何の断りもなく修正するよりは適切な対処と思います。

でも、あやふやな昔話を聞いた王室本著者がそのあやふやさに気づかないことは肯定できません。内輪話は嘘や真実が入り乱れているもの。耳にしたことをすべて無批判に受け入れるのではなく、信頼できる証言かどうかを吟味しなければ、著書が根拠薄弱でセンセーショナルに流れるだけではないですか?せめて「1980年の駐英イラン大使館の事件と思われる」と注をつけたくなるくらいの違和感は持ってほしかったのですが。

一次文献で「イラン人質事件」だったのをMeyer-Stableyが読み間違えたとしたら、もう問題外。本に書きたいことは丁寧に読んでくれと言いたい。実際、『Noureev』での「ダニエル・エズラロー振付In the middle, somewhat elevated」「魔法の詩」などなどを思うと、こちらの可能性のほうが高いですね。

おまけ - すべての交渉を拒否したとは限らない?

出来事の捉え方を正しい、間違いと区分けするのは難しいものです。でも、先ほど書いた『サッチャー回顧録[上]』で占拠事件のくだりを読んでいたら、次のくだりをMeyer-Stabley(または一次情報源の人物)の論評らしい「すべての交渉を拒否した」と対比させたくなりました。サッチャーと当時の内務大臣ウィリー・ホワイトローが合意した対処方針です。

すなわち、まず辛抱づよく交渉を試みる。しかし、もし人質の誰かが傷つくようなことがあれば、大使館を攻撃することを考える。そして人質が一人でも殺されたら、空軍特殊部隊(SAS)を必ず送り込むことにする。作戦にはある程度の弾力性がなくてはならなかった。しかし、はじめから問題外だったのは、人質と一緒であるにせよそうでないにせよ、テロリストたちを逃すことだった。(P.118)

実際、SASが突入したのは事件発生5日後、人質の一人が殺されてから。サッチャーはテロリストの要求を聞く気はなくても、武力なしで解決するための交渉は否定していません。

この事件をMeyer-Stableyがどう評価しようと、王室本の良し悪しにはほとんど関わらないでしょう。でも、「もしかしてMeyer-StableyはサッチャーがただちにSASを突入させたと思っているのかな」と意地悪く考えてしまいます。

バッキンガム宮殿に多分State Apartmentsはない

「なぜ新倉本ではステート・ルームが住居呼ばわりされるんだ」という疑問から、フランス語でのappartementの意味と用例にまで発展した前回の記事。そして私が「Meyer-Stableyがステート・ルームをこう呼ぶのは不適切だろう」と考えるに至ったのは、フランス語でそう呼ばれている現状がある表現appartementsではなく、英語の呼び名"State Apartments"でした。前の記事にも書きましたが、もう一度引用します。

『バッキンガム』P.49:
住居は宮殿の南側と西側を占め、
Meyer-Stabley原本:
Ces appartements (State Apartments) occupent les côtés sud et ouest du palais ;

フランス語の原文中に英語の"State Apartments"。イギリスの宮殿の部屋の説明で英語の呼び名が出るのだから、これを読めば「現地では"State Apartments"と呼ばれているのだな」と解釈するのが普通でしょう。

ところが、私が「ステート・ルーム」と連呼しているとおり、バッキンガム宮殿のあの豪華な部屋は現地では"the State Rooms"と呼ばれます。バッキンガム宮殿の紹介ページはインターネットで山ほど見ることができますが、圧倒的多数で"State Rooms"という語句が使われます。その中に英国王室公式サイト英国王室コレクションサイトが入っている時点で、"State Rooms"と"State Apartments"のどちらが一般な名前なのかは明らかです。

他の宮殿なら一般的なState Apartments

"state apartments"を検索するとたくさん出くわすのは、ウィンザー城のそれでした。ケンジントン宮殿セント・ジェームズ宮殿にも、そう呼ばれる部屋があるようです。バッキンガム宮殿だけが"State Rooms"なのは不思議です。多分apartmentは豪華なイメージがある言葉だし、バッキンガム宮殿は他の宮殿より豪華そうなのに。でも現状は現状。客間一式をappartemente(集合住宅内の住居を指すフランス語)と呼ぶよりは、apartmentと呼ぶのが似合う部屋をroomと呼ぶほうが、私には受け入れやすいことです。

Meyer-Stableyは宮殿案内を書くときに何らかの資料を読んだでしょうが、ほとんどの資料であそこは"State Rooms"と書かれているはず。ああいう部屋を"State Apartments"と呼ぶ例がMeyer-Stableyの頭にあり、バッキンガム宮殿は違うということをつい失念したのかも知れません。

手を広げ過ぎた気味がある原本

いずれにせよ、ステート・ルームはバッキンガム宮殿内部の最大の名所。およそ一般的でない呼び名を使うと、「この本を受け入れていいのだろうか」という疑念を呼びやすいでしょう。一見間違いだと分かりにくいメンデルスゾーンフレッド・ナットビームの件と違い、観光ガイドブックを読んだだけの人にも突っ込まれやすいのが、"State Apartments"のまずいところです。

私は英国王室についての知識を求めて原本『La Vie quotidienne à Buckingham Palace sous Elisabeth II』を読んでいるわけではないので、この本に間違いが多かったとしても、本気で失望したり怒ったりはしません。でも、資料を読む暇がないなら、22.5 x 3 x 14 cm (出典は英アマゾン)もする長大な本にしなければいいのにとは思います。ステート・ルームはバッキンガム宮殿を語る上で外せませんが、メンデルスゾーンやナットビームの件は、書かなくてもよいことをわざわざ書いて墓穴を掘った形です。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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