伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2014.10.24
自分への絶賛を一人による発言だと明記する節度
2014.04.04
ヌレエフの調子を整えるのは古典バレエ
2014.03.16
ヌレエフの寄与を惜しみなく認めるフォンテーン
2014.03.11
半分恋するのは踊りのため
2014.03.01
亡命後すぐスーパースターになったのではない

自分への絶賛を一人による発言だと明記する節度

『ヌレエフ』P.85:
初日を観たフランスの批評家たちは大挙して劇場に舞い戻って来ました。団員の一人がスプートニクにも値する出来栄えだったからです」
Meyer-Stabley原本:
Les critiques français qui assistaient à la première étaient tous revenues en force et c'est alors que l'un d'eux me qualifia de Spoutnik. »
Telperion訳:
初日に出席したフランスの批評家は全員大挙してまた現れ、このとき批評家の1人が私をスプートニクと呼んだ」

1961年にキーロフ・バレエのツアーでパリ・デビューしたときを振り返るヌレエフ。恐らくヌレエフが亡命して数年後に出した自伝『Nureyev: An Autobiography』からの引用。

ヌレエフはパリ公演の初日には出なかった。複数回の公演のうち、最も注目されるのは初日であり、後のほうの公演への関心は薄くなるのが普通。しかしヌレエフが自分の出番で脚光を浴びたため、批評家たちがヌレエフを見に来たことを述べている。

構文解析

強調構文の使用

批評家が劇場にまた来たことに関する最初の文については、特に言うことはない。私が取り上げたいのは、最初の文とet(そして)で結ばれた次の文。この文で使われている強調構文の形を見やすくするため、英語訳も並べて書く。

フランス語
c'est alors que l'un d'eux me qualifia de Spoutnik.
英語
it is then that one of them called me Sputnik.
直訳
彼らの一人が私をスプートニクと呼んだのはその時だ。

構文"c'est A(強調したい語句) que B(文からAを除いた部分)"は、文中のAを強調するために使われる。英語の"it is A that B"に似ているので理解しやすい。ここではalors(その時)を強調している。

主語は団員の一人でなく批評家の一人

queの後にある文の主語は"l'un d'eux"(彼らの一人)。eux(彼ら)とは、前の文にある複数形の名詞、つまりフランスの批評家たち。新倉真由美は団員としているが、キーロフ・バレエの団員たちは前の文はもちろん、その前もしばらく話題になっていない。それを既出であるかのようにいきなり「彼ら」呼ばわりはしないだろう。

スプートニクと呼ぶ

文の述部は"me qualifia de Spoutnik"。"qualifier A de B"(AをBと呼ぶ)という表現が使われている。Aに当たるのはme(私を)で、代名詞なので述語qualifiaの前に来ている。

新倉真由美は文の主語をヌレエフだと思っているので、述部も別の解釈をしていそう。qualifierには「資格を与える」という意味もあるので、それをもとに何か想像したのかも知れない。

鼻息が荒い新倉本のヌレエフ

Meyer-Stabley本でも新倉本でも、ヌレエフをスプートニクにたとえて絶賛しているのは同じ。しかし新倉本では、「スプートニクのようなヌレエフ」がある批評家の感想ではなく、誰もが認める事実のように扱われている。それをヌレエフ本人が言うのは、とても図々しい話。当時のスプートニクはソ連の国威を大いに高揚させた存在だろうから、東側の人間が気安く自分をなぞらえられないと思う。プライベートな場での軽口ならまだしも、出版された本で。

ヌレエフの調子を整えるのは古典バレエ

『ヌレエフ』P.221:
彼はクラシックの役とモダンバレエを巧みにミックスする術を心得ていた。
「医者に行くようなものです」
彼は意味ありげに皮肉って言った。
Meyer-Stabley原本:
Il sait doser les rôles classiques – « C'est comme aller chez le médecin », ironisera-t-il – et les ballets modernes, avec un sens stratégique évident.
Telperion訳:
彼は明白な戦略的な感覚を用い、古典の役(当人は「医者に行くのと同じです」と皮肉る)とモダン・バレエを調合することができた。

1970年代にヌレエフがモダンやコンテンポラリーと呼ばれる分野のバレエを取り上げる割合を上げていったことについて。

受診にたとえたのは古典バレエのみ

原本で« C'est comme aller chez le médecin »(「これは医者に行くようなものです」)は、括弧に相当するダッシュのペアに囲まれ、"les rôles classiques"(古典の役)の直後に書かれている。だから「古典の役」の注釈だと分かる。つまり、ヌレエフが取り組んだ古典バレエとモダン・バレエのうち、医者に行くことにたとえられたのは古典バレエだけ。

一方、新倉真由美の訳だと、「医者に行くようなもの」とヌレエフに言われたのは、「クラシックの役とモダンバレエを巧みにミックスする」ことのように読める。「クラシックの役」だけについてのことだと理解するのは、私には無理だった。

ヌレエフはモダンより古典に馴染んできた

なぜヌレエフが「古典の役は医者に行くようなもの」を皮肉として語ったのか。Meyer-Stabley原本では突っ込んで書いていないため、ここから先は完全に私の推測になる。

1960年代のヌレエフが取り組んだのが古典や新古典と呼ばれる分野のバレエであることは、ヌレエフ財団サイトにあるヌレエフの演目リスト(1960年代など)からうかがえる。モダン・バレエの比重を高くしたとはいっても、ヌレエフにとってモダン・バレエを踊ることは、リスクを伴う慣れない挑戦。自分のレベルを維持するために頼れるのは、やはり長年訓練してきた古典なのだろう。多彩な分野で踊ることに意欲的になっても、古典とモダンを等しくこなすことはできないという限界を、ヌレエフは「古典を踊るのは医者に行くようなもの」と表現したのではないだろうか。

慣れない分野の踊りに伴うリスクは他でも言及される

違う分野の踊りに取り組むのが肉体への負担になるという話は、時折耳にする。書籍では次の2冊。

  1. 『バランシン伝』(バーナード・テイパー著、長野由紀訳、新書館)。うろ覚えだが、バリシニコフがバランシンのNYCBを去った理由として、バランシンのレパートリーに深入りするうちに今まで踊れたものが踊れなくなることをバリシニコフが恐れたからだと書いてある。
  2. そして『ヌレエフ』。原著者Meyer-Stableyはバレエの専門的な話にあまり踏み込まないが、ヌレエフのコンテへの挑戦に触れた最初のほうでこう書いている。
    『ヌレエフ』P.218-219:
    クラシック以外の作品へのアプローチには大胆さと慎重さを要した。今までとは違う動きをするためには、鍛えられた筋肉にさらに別の負荷をかけねばならないのは百も承知だ。

丸括弧の過度な排除は誤解につながる

Meyer-Stableyは原本で、直前に書いたことの詳しい説明を丸括弧に囲んで書くことが多い。今回は丸括弧でなくダッシュだが。それに対応する新倉真由美訳では、ほとんどの場合、丸括弧が消える。次の記事にある引用部分はほんの一例。

  1. プティが作品を引き上げたのはベジャールのためではない
  2. ソ連当局による優遇と締め付け
  3. 衣装係が監視する場所

訳本『ヌレエフ』での丸括弧はだいたいの場合、新倉真由美による独自の注を始めとする語句の説明。長めの文を丸括弧で囲むことは、新倉真由美あるいは文園社が意識的に避けているのだろう。

原本で丸括弧で囲んだ文は訳本でも必ず丸括弧で囲まなければならないとまでは思わない。しかし丸括弧は便利なもので、避けようとすると余計な労力がかかるのは確か。上に挙げた3番目の例は、括弧を外すのが最も易しいが、それですら「衣装係の名前はMeyer-Stableyにとっておまけの情報に過ぎない」というニュアンスが消えている。まして今回や1番目の例の場合、丸括弧を使わずに読者に誤解させない文を書くのはとても難しい。出版側のこだわりを通すこと、読者に原文の意味を確実に伝えること。どちらを優先するかといえば、当然後者だと私は思うのだが。

ヌレエフの発言は謎かけではない

医者のたとえを言うときのヌレエフは"ironisera-t-il"(彼は皮肉る)とのみ書かれている。訳本の「意味ありげに」は新倉真由美が追加した独自の表現。

私が上に書いた推測が正しい場合、ヌレエフは「慣れない分野の踊りは大変」という事実に基づいて医者のたとえを言っている。聞き手だって踊りについて知っていれば、ヌレエフの言いたいことを理解できるはず。ヌレエフは自分の現状を隠さず話しているのだから、意味ありげな態度だったとは私は思わない。

新倉真由美のヌレエフは、まるで自分の言葉に隠れた意味があることを匂わせているように聞こえる。つまり、「医者に行くようなもの」は謎めいた言葉、ヌレエフが聞き手を戸惑わせるために放った言葉として扱われている。新倉真由美にとってヌレエフの言葉は意味不明なので、相手を煙にまくための言い草だと思って「意味ありげに」という表現を創作したのかも知れない。

ヌレエフの寄与を惜しみなく認めるフォンテーン

『ヌレエフ』P.209:
彼はなすべきすべてをしているように見えました。
Meyer-Stabley原本:
J'ai l'impression de tout lui devoir.
Telperion訳:
すべてを彼に負っているという印象です。

踊りのパートナーとしてのヌレエフについて語るフォンテーン。「彼は私が望むように踊らせる、私自身の最大限を与える」といったことを語った後に続く。

構文解析は単純

直訳は「私はすべてを彼に負うという印象を持っています」。

  • 文中で使われている"devoir A à B"は「AをBに負う」。
  • Aにあたるのがtout(すべて)
  • "à B"にあたるのがlui(彼に)。luiそのものが「彼に」という意味なので、その前に前置詞à(~に)は要らない。

フォンテーンはヌレエフの寄与の大きさを語りたい

"devoir A à B"の難しいところは、「AをBに負う」から転じて「AなのはBのおかげである」という意味にもなること。つまり、「すべてを彼に負う」には次のどちらの解釈もありえる。

  1. 私は彼にすべてを差し出さなければならない
  2. すべては彼のおかげである

ここではどちらを指すのか、私には断定できない。しかし、「彼は私がやりたいように私を踊らせるのです」と「彼はダンサーではない、バレエです」という熱烈な賛辞に挟まれた言葉なのだから、2番目の可能性のほうが高いと思う。

ヌレエフを採点しているようにも見える新倉訳

フォンテーンの動作であるdevoirには「~すべきである」という意味がある。これをヌレエフの動作にした結果が「彼はなすべきことをすべてしている」なのだろう。私がこれを読むと、これだとフォンテーンがパートナーに求める基準をクリアしたというだけで、ヌレエフのおかげで新しい世界が開けたという陶酔には至らないという印象を受ける。

更新履歴

2016/6/17
  • 第2小見出しの下で2番目の解釈に肩入れする
  • 原文と新倉訳の印象の違いに触れる

半分恋するのは踊りのため

『ヌレエフ』P.144:
彼女はコレット・クラークに「まるでルドルフに恋しているみたい」と打ち明けている。
Meyer-Stabley原本:
Elle confie même à Colette Clark qu'il faut qu'elle soit « à moitié amoureuse de Rudolf » pour danser avec lui aussi bien qu'elle le fait.
Telperion訳:
彼女はコレット・クラークに打ち明けてすらいる。ルドルフと踊るには、そうするのと同じように「彼に半分恋する」ことが必要だと。

ヌレエフとの伝説のパートナーシップに関するフォンテーンの談話。

踊りのために恋心が必要と言う判断

新倉真由美がフォンテーンの言葉として訳したのは、括弧に囲まれた « à moitié amoureuse de Rudolf »(ルドルフに半分恋する)だけ。それに「まるで恋しているみたい」は原文の表現を大して尊重していないように見える。

実際にフォンテーンがコレット・クラークに話した内容は、"il faut"から文末まで。訳は上に書いたので、ここでは注意すべきイディオムについて解説する。

il faut que A(節) pour B(不定詞句)
意味は「BするにはAである必要がある」。AとBに当たるのは次のとおり。
  • A: elle soit « à moitié amoureuse de Rudolf » (彼女が「ルドルフに半分恋する」)
  • B: danser avec lui (彼とともに踊る)
aussi bien que ~
意味は「~と同じように」。「~」に当たるのは"elle le fait"(彼女がそれをする)。「それをする」とは恐らく、すぐ前にある「彼とともに踊る」。

フォンテーンの言葉から見えるのは、2人の踊りを高めるためには自ら恋愛感情を高めることをいとわないほど、踊りにすべてを賭けたダンサー。何の作為もなく恋するような気持ちになったわけではないと思う。

新倉真由美が省いたもう1か所の「半分恋する」

原本では、フォンテーンとヌレエフの恋愛関係が終わったという記述の後に、この「半分恋する」(à moitié amoureuse)という言い回しがまた出る。しかし新倉真由美はこの言い回しに興味がなかったのか、あっさり省いた。

『ヌレエフ』P.158:
二人は七七年まで踊り続け、
Meyer-Stabley原本:
Noureev restera à tout jamais à moitié amoureuse de Margot et dansera avec elle jusqu'en 1977.
Telperion訳:
ヌレエフは永久にマーゴに半分恋し続け、1977年までともに踊ることになる。

『Nureyev: His Life』(Diane Solway著)のペーパーバックP.300~301あたりを読むと、秘書のジョアン・スリングやダンサーのリン・シーモアなど、2人に恋愛関係があったという説に否定的な人もそれなりにいる。Meyer-Stableyがそういう意見をないもののように書くのは偏っていると思う。しかし真偽が定かでなくても、上の文は胸を打つ文だと思う。

更新履歴

2016/5/17
諸見出しを変更、新倉訳への言及を増やす

亡命後すぐスーパースターになったのではない

『ヌレエフ』P.120:
彼はスーパースター、ヌレエフにいくつかの特徴を見出した。
「彼はその肉体、顔、尊大さ、優雅さに特徴があり、的確に演じる術(すべ)を心得ていました」
Meyer-Stabley原本:
Le mentor du couturier reconnaîtra la griffe de « superstar » de Rudolf : « Il en avait le physique, le visage, l'arrogance, la grâce, et il savait pertinemment en jouer. »
Telperion訳:
デザイナーの導き手はルドルフの「スーパースター」らしさを認めることになる。「彼にはそういう容姿、顔、傲慢さ、優雅さがあり、それを的確に操ることができました」

1961年に亡命して間もなく、クエヴァス・バレエの舞台に出ていたヌレエフを見たイヴ・サンローランのパートナー、ピエール・ベルジェの感想。

原文と新倉訳の違い

スーパースターはヌレエフ一人を指す言葉ではない

ベルジェが認めたのはルドルフのスーパースターの特徴(la griffe de « superstar » de Rudolf)。「スーパースターの(de « superstar »)」はヌレエフでなく、ヌレエフが持つ特徴を形容している。「ヌレエフにはスーパースターの特徴がある」と「スーパースターであるヌレエフには特徴がある」は同じではない。前者ではヌレエフが実際にスーパースターだとは限らないのだから。

ヌレエフにはスーパースターの容姿や雰囲気がある

ベルジェの言葉の前半« Il en avait le physique, le visage, l'arrogance, la grâce,»の直訳は、「彼はそれの容姿、顔、傲慢さ、優雅さを持っていた」。文中のen(それの)は、前の文の"de « superstar »"(スーパースターの)を言い換えた代名詞。つまり、ヌレエフの容姿その他はスーパースターのものだということ。

新倉真由美の文だと、ヌレエフの容姿その他には特徴があったというだけで、どういう特徴だったかは分からない。

一般的な演技力については話していない

ベルジェの言葉の後半« il savait pertinemment en jouer. »)にある"en jouer"は、"jouer de 名詞"の言い換え。"jouer de ~"の意味は「~を演じる」ではなく、「~を操る、利用する、演奏する」。"jouer de"の目的語は、すぐ前で書かれた「スーパースターの容姿、顔、傲慢さ、優雅さ」だろうから、"jouer de"は「操る、利用する」だろう。

新倉真由美の文だと、ヌレエフの舞台上での演技についてのみ話しているように見える。

亡命直後のヌレエフは新倉真由美がいうほど盤石ではない

上の1番目と2番目の点について、原文と新倉真由美訳を見比べると、わずかながらも興味深い差がみられる。

  • 原文のベルジェは、ヌレエフにスーパースターのさまざまな特徴があると述べることで、ヌレエフがスーパースターだということを相手に納得させようとしている。
  • 新倉真由美訳のベルジェは漠然と「特徴がある」と言うだけで、どんな特徴かを明かすことはない。一方、ヌレエフがスーパースターであることは既定事実にされている。

この差を次のようにも言い換えてもよい。

  • Meyer-Stableyはヌレエフがスーパースターになりかけているように書いている
  • 新倉真由美はヌレエフが疑問の余地のないスーパースターのように書いている

『Nureyev: His Life』(Diane Solway著)を読む限り、事実をふまえているのはMeyer-Stableyのほう。亡命したばかりのヌレエフは多くの観客を熱狂させていたものの、「亡命という話題性で人気になっている」という批判もあり、人気が一過性かどうかは議論の対象たりえた。例を挙げる。

1962年のヌレエフを含め4人のスターだけによる公演(『ヌレエフ』P.136-138を参照)の評(ペーパーバックP.219)

may have been of more interest to the sociologist than dance critic

舞踏評論家より社会学者の興味を引いたかも知れない

上記の引用と同じく、当時のヌレエフについてのベルジェの発言(ペーパーバックP.174)

At the time, many dancers and choreographers felt that it was only because Nureyev was a Russian who defected that people were taoking about him.

当時多くのダンサーや振付家は、ヌレエフの話題で持ちきりだったのは彼が亡命したロシア人だからに過ぎないと感じていました。

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プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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