伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2013.11.04
ストリップ劇場のいかがわしさの微妙な差
2013.09.27
パリオペ監督が高い地位とは言っていない
2013.09.17
ヒーローでも卑劣でもないタランティーノ
2013.05.27
あちこちに現れるモード・ゴスリング
2013.04.20
自分を忘れる遺された友人たち

ストリップ劇場のいかがわしさの微妙な差

『密なる時』P.51:
年端の行かないダンサーたちが観客たちの前で色あせた衣装を1枚1枚はぎとっていき、むくつけき男たちはその様を見ながら膝の上にぶっきらぼうに置かれたレインコートの下の手をせわしなく動かしていた。
プティ原本:
des danseuses sans âge effeuillaient leurs costumes fanés devant un auditoire strictement masculin dont les mains étaient occupées sous leur imperméable négligemment posé sur leurs genoux;
Telperion訳:
年齢不詳のダンサーたちが男性だけの客の前で色あせた衣装をむしり取り、客たちの手は膝の上に無造作に置かれたレインコートの下で忙しくしていた。

ミラノでヌレエフがプティを連れて行ったストリップ劇場にて。

ダンサーが未成年とは限らない

"sans âge"は「年齢不詳の」。プティたちが見たダンサーは、若作りした中年女性という可能性もある。少女のストリップだと、私は経営者どころか観客の人間性も疑いたくなる。そうでない可能性が原文にある場合は、それを尊重したい。

新倉真由美がいうほどうさんくさくない観客

仏和辞書によると、形容詞masculinはこんな言葉。

『プログレッシブ仏和辞典 第2版』より
価値判断を伴わない「男の」の意味ではmasculinが普通。
『ラルース仏語辞典』より
Qui appartient, qui a rapport au mâle, à l'homme
雄、男性に属する、関係がある(Telperion訳)

これを念頭に置くと、「厳密に男の聴衆」(auditoire strictement masculin)とは、客が全員男だったという意味だろう。ストリップ劇場では珍しくもないことでもある。

新倉真由美は"auditoire strictement masculin"を「むくつけき男たち」と訳している。国語辞典によると、「むくつけき」はこんな言葉。

『新明解国語辞典 第5版』より
やさしい所が見えず、何をしでかすか分からない。
『デジタル大辞泉』より
1. 無骨(ぶこつ)である。2. 気味悪い。3. 常軌を逸していて恐ろしい。

「無骨」は女性より男性を形容することが多いとはいえ、「むくつけき」が特に男性らしさを表す言葉かどうかは疑わしい。それに、価値判断を伴わないmasculinの訳語として、マイナスイメージいっぱいの「むくつけき」はふさわしくない。翻訳の時に多彩な言葉を使うのは良いことだろうが、多彩な言葉を使うために原文が置いてきぼりになるのは感心しない。

パリオペ監督が高い地位とは言っていない

『密なる時』P.88:
オペラ座バレエ団の芸術監督は、だれかあるいは何かがその2つの椅子を外させる瞬間までは非常に高い地位だけれど、その時唐突に君は地面に放り出されてしまうのだよ」
プティ原本:
Le directeur du ballet de l'Opéra se croit bien installé jusqu'au jour où quelque chose fait s'écarter les deux sièges, et là, soudain il se retrouve le cul par terre.
Telperion訳:
オペラ座バレエの監督は自分がとても安定していると信じているが、それもある日、何かが2つの椅子を離すまでのことで、すると不意に尻餅をついているのさ。

パリ・オペラ座バレエの監督の地位を、隣り合った2つの椅子の真ん中に座ることにたとえたプティ。

プティが言うのは監督の思い込み

第1文の述語は"se croit ~"(自分が~だと信じる)"。その後に続く言葉"bien installé"はあくまで監督が信じていることで、実際にはそうではないというプティの皮肉がこもっている。

"bien installé"の直訳は「うまく据え付けられた」。椅子の比喩と結びつける場合、私は「何の問題もなく座っている」と解釈している。2つの椅子の間に座っても、自分の位置は大して高くならないので、私は「うまく」を「非常に高く」と同じだとは思わない。もっとも、こちらは人それぞれの解釈がありそうだが。

もとから高くなさそうな監督の地位

新倉真由美がプティ原本と並行して読んでいるMeyer-Stabley著『Noureev』(『密なる時』訳注に書名あり)を読むと、少なくともリファール時代後ヌレエフ時代までは、パリ・オペラ座バレエの監督が自分の意を通すのは大変だった、ダンサーたちが何かと監督に楯突いたと書かれている。これは監督ヌレエフの奮闘を語るうえで欠かせない要素だと思う。しかし新倉真由美は訳本『ヌレエフ』で何度もそういう描写を見過ごしている。目立つ例はこのあたり。

プティが書いた「うまく座った」を「非常に高い地位」と言い換えるのがありえないとまでは思わない。しかし、「昔の監督は苦労が絶えなかったらしいのに…」ともやもやしてしまった。『ヌレエフ』でヌレエフが監督時代も好き勝手したような言われ方なのに不満があるため(「訳本が招くヌレエフの誤解(3) - 馬耳東風」にいくつか例あり)、ここでも引っ掛かるのだと思う。

椅子から落ちるのはヌレエフとは限らない

最後に椅子から落ちる人物をプティはil(彼)と呼んでいる。ヌレエフに向かって話した言葉でヌレエフを彼とは呼ぶはずもない。彼とは最初の文の主語であるオペラ座バレエの監督。プティは一般論として監督の地位の危うさを語っており、ヌレエフ一人に限定しているわけではない。ヌレエフの監督就任が決まる前に話した可能性もある。

更新履歴

2014/6/21
小見出しを導入、2番目の小見出しが付いた内容を書き直し

ヒーローでも卑劣でもないタランティーノ

『密なる時』P.62:
粗暴で偏狭で卑劣なヒーロー、タランティーノ(注9)にも似ていた。
プティ原本:
et tels les héros sordides de Tarantino, brutal et borné.
Telperion訳:
タランティーノの下劣な主人公たちのように、粗暴で偏狭だった。

ヌレエフを「モリエールの守銭奴のように倹約家、ユノのように忠実」などとたとえ続けた文の最後を締めくくる比喩。

タランティーノは新倉真由美の訳注にあるように映画監督。他の比喩では架空の人物や抽象的な人物を取り上げているプティが、ここに限ってタランティーノという生存する人物を取り上げ、しかも性格にケチをつけるのには違和感を覚える。正しくは「ヒーロー、タランティーノ」でなく「タランティーノのヒーロー」、つまり映画の登場人物なのだろうと、原文を知らなくても推察した読者は多いと思う。わざわざ私が原文を出して裏付けるまでもないような気もするが、一応明記しておく。

  • 原文では"de Tarantino"(タランティーノの)が"les héros sordides"(下劣なヒーロー)を修飾している。
  • ヒーローとタランティーノが同一人物なら、ヒーローは原文のような複数形でなく、単数形"l'héros sordide"になるはず。

原文の"brutal et borné"(粗暴で偏狭)は文法的にはTarantinoだけを修飾することも可能だろう。しかし、ヌレエフに似ているとされているのがタランティーノ自身でなくその主人公なのは明らかなので、"brutal et borné"という形容も主人公のものだと見なすほうが自然。

あちこちに現れるモード・ゴスリング

『密なる時』P.100:
ロンドンではモード・ゴスリングが彼の名を口にしては、ずっと尽きることのない悲しみに付きまとわれていた。
プティ原本:
à Londres Maude Gosling est omniprésente dès que le nom du danseur est prononcé.
Telperion訳:
ロンドンではダンサーの名が発せられたとたんにモード・ゴスリングが至る所に現れる。

"Maude Gosling est omniprésente"は「モード・ゴスリングはあらゆる場所にいる」。omniprésenteには「絶えず付きまとう」という訳語もあるが、いずれにせよ、あちこちにいるのはモード・ゴスリング自身であり、モードに付きまとう何物かではない。

普通の人間であるモードが本当にあらゆる場所にいるはずがない。モードが現れるのは、"dès que le nom du danseur est prononcé"(ダンサーの名が発音されたらすぐ)という条件が満たされた時。ヌレエフの名を発音するのがモードとは限らないことに注意してほしい。『密なる時』原書が出版された1998年当時、ヌレエフを話題にするイベントはすでに何度も開かれていたはずで、恐らくモードはそういう場所がどこであろうと駆けつけていた。

新倉真由美はomniprésenteを「絶えず付きまとう」でなく「絶えず付きまとわれる」に読み替えたらしい。しかし原文にはモードに付きまとうものの描写が当然ないので、原文にない「ずっと尽きることのない悲しみ」なる概念を創作し、それがモードに付きまとっていることにしている。

更新履歴

2014/9/24
仏文解釈と新倉真由美の解釈の説明を分ける

自分を忘れる遺された友人たち

『密なる時』P.99:
今もなお、ヌレエフを失ってしまったやもめたちがパリの通りを走り抜け交差し、出会いまた忘れ去っていく。
プティ原本:
Aujourd'hui les veuves Noureev courent les rues de Paris, se croisent, se rencontrent et s'oublient.
Telperion訳:
今日、ヌレエフのやもめたちはパリの通りを走り、すれ違い、出会い、自分を忘れる。

ヌレエフ亡き後の喪失感を抱えた人々の描写の冒頭。この後でプティは具体的な名を次々に挙げ、その人々の生活にヌレエフが今も根を下ろしている様子を書く。

新倉真由美が「忘れ去っていく」と訳した動詞は、代名動詞s'oublier。単なる「忘れる」という意味の他動詞oublierと違い、次のような意味になる。

忘れ去られる
主語である物事が、人びとの記憶から消えること。
自分を忘れる
主語は人。「自制心を失う」「私欲を捨てる」などの意味が派生する。

この場合は明らかに2番目の意味。

  1. 引用した文の後には、その人々がヌレエフを思い出す様子が詳しく書かれている。その人たち自身が他人に覚えられているかどうかという話が入り込む余地はない。
  2. 人々の動作としてs'oublientとともに並べられたのは、courent(走る)、"se croisent"(すれ違う)、"se rencontrent"(出会う)。どれも能動的な動作なので、そこに受動的な「忘れ去られる」が加わるのは場違い。

「自分を忘れる」とは具体的にどういうことかは、想像するしかない。印象的な知人が亡くなった後で同じ喪失感を持つ人に会った時の感情という文脈を踏まえると、自分の現在の日常を忘れ、物思いに沈むというイメージを私は抱く。

新倉真由美の文を読むと、人々が忘れるのはヌレエフか、会ったばかりのヌレエフを介した知人に見える。「今では共通の知人に会った時に思い出すだけで、それもすぐに忘れる」と言っているに等しい。この後で書かれる人々の追憶とあまりにミスマッチ。人々の名の中には、プティ自身の名もあるのに。

更新履歴

2014/9/24
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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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