伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2014.03.05
ニューヨークで初めての公演
2013.11.25
困難がない生き方と困難を無視しない生き方
2013.11.21
指揮者転向の足掛かりに適したバレエ伴奏
2013.11.15
ヌレエフの動揺を答えとする疑問
2013.11.08
消えた創造者と創造物のたとえ

ニューヨークで初めての公演

『密なる時』P.19:
マーゴ・フォンテーンとルドルフ・ヌレエフのカップルが、ブロードウェイの古いメトロポリタン劇場で『ジゼル』を初演した時のことは今も忘れがたい (注3)。
プティ原本:
le couple Fonteyn-Noureev dansant Gisèle pour la première fois sur la scène du vieux Metropolitan de Broadway est inoubliable.
Telperion訳:
ブロードウェイの古いメトロポリタンの舞台で初めてジゼルを踊るフォンテーンとヌレエフのカップルは忘れられない。

初演とは作品の初上演を指す

「初演」を国語辞書を引くと、こうある。

デジタル大辞泉
初めて上演・演奏すること。「この戯曲は一九四九年に―された」「本邦―」
新明解国語辞典第5版
最初の演奏(上演)。「本邦―」

また、googleで見つかる「初演」の用例で多いのは以下のとおり。

  • 世界で初めて上演された(一番よく見る意味)
  • ある場所で初めて上演された
  • あるバレエ団で初めて上演された(バレエ演目の場合)

しかし「あるダンサーが初めてそれを演じた」という意味で使われているのは見かけない。

つまり、「初演」という概念の主役は作品。「他のバレエ団ですでに演じられた作品をあるバレエ団で初めて演じる」を「何とかバレエ団初演」と呼ぶのは、上演場所が広がるという意味で作品上演の歴史にとって重要になりえるからだろう。しかし、「すでに演じられた作品をあるダンサーが初めて演じた」の場合、そのことはダンサーにとっては重要でも、作品自体の歴史に影響するのはまれ。だから初演とは呼ばないのだと思う。

日本語の「初演する」に当たるフランス語はcréer。ラルース仏語辞典にはこうある。

  • Être le premier à interpréter une chanson, un rôle, etc.
    歌や役などを演じる最初の人間になる
  • Faire représenter un spectacle pour la première fois.
    公演を初めて上演させる

用例まで見ないと分かりにくいかもしれないが、ここでも「初めて」なのは演者でなく作品。

件の「ジゼル」公演を初演と呼ぶのは不適切

では、プティが書いたフォンテーンとヌレエフの「ジゼル」はどうか。

  • フォンテーンとヌレエフがアメリカで共演したのはこれが初めて
  • 「ジゼル」は超メジャー作品なのだから、世界初演もメトロポリタン劇場初演もはるか昔

「初めての公演」の主役はフォンテーンとヌレエフであり、「ジゼル」ではない。作品を主体とする「初演する」という言葉を使うべきシチュエーションではないので、プティはcréant(初演する)でなく、"dansant pour la première fois"(初めて踊る)という言葉を使っている。2人が「ジゼル」を初めて演じたのはロンドンだが、プティの記述は「メトロポリタンで初めて『ジゼル』を踊る」ということで、何の問題もない。

妥当なプティの文を間違い扱いしているような訳注

新倉真由美がここで「初演した」という言葉を使ったのは不適切だと思う。でもそれだけなら、「言葉が変だな」とは思っても、記事にまではしなかったかも知れない。私が見過ごせなかったのは、この部分に新倉真由美が付けた注の存在。

注3 『ジゼル』 ヌレエフとフォンテーンによる『ジゼル』の初共演は、1962年2月21日、ロンドンのコヴェントガーデンで行われた。

何だか私には、「フォンテーンとヌレエフが『ジゼル』を初演したのは、本当はニューヨークでなくロンドンである」と言いたげに見える。プティの文では「初めて」が「メトロポリタンで初めて踊る」を修飾していると私は解釈しているが、新倉真由美は「初めて踊る」だけを修飾していると思ったのではないだろうか。

『ヌレエフ』で新倉真由美が「間違った原文を修正したつもりなのだろう」と思わせる誤訳を繰り返していることは、誤訳を守るために原文を書き換えた疑惑で書いた。ここを読んでいると、その最初の兆しが現れているように思えて仕方がない。わざわざプティが間違ったように解釈するのか、自分は「初演」の使い方がおかしいくせに、という多少の反発を感じる。

更新履歴

2015/3/16
他記事への言及が長すぎるので消す

困難がない生き方と困難を無視しない生き方

『密なる時』P.58:
そうやってヌレエフは何事もおざなりにすることなく生活し、アスリートの人生には必要とされる、大きな困難も名声に執着する憂鬱もなかった。
プティ原本:
Vivre ainsi en ne négligeant rien, ni les grandes difficultés qu'exigeait sa vie d'athlète, ni l'ennui de cultiver sa gloire,
Telperion訳:
アスリートの生に不可欠な大きな困難も、栄光を育むことの倦怠も、何ごとも無視せずにこうして生き、

"Aを否定する文 ni B"は、Aを否定した後でBも否定するための構文。上の原文に当てはめるとこうなる。

A
rien(何も)
B
  • les grandes difficultés qu'exigeait sa vie d'athlète(彼のアスリートの人生に不可欠な大きな困難)
  • l'ennui de cultiver sa gloire(彼の栄光を育てることの倦怠)
Aを否定する文
en ne négligeant rien(何も無視せずに)
Bも否定する文
  • 彼のアスリートの人生に不可欠な大きな困難も無視せずに
  • 彼の栄光を育てることの倦怠も無視せずに

ヌレエフは困難さがない気楽な生活をしていたのではなく、困難にも倦怠にもきっちり対処し、乗り越えていたのだろう。実際、プティは「彼の人生に不可欠な困難」(difficultés qu'exigeait sa vie)と書いている。それに、膨大な練習を毎日欠かさなかったヌレエフには、「困難がない」より「困難から逃げない」のほうが似つかわしい。

2014/2/26
文法説明の書き直し

指揮者転向の足掛かりに適したバレエ伴奏

『密なる時』P.94:
また彼はクラシックバレエのレパートリーを演奏するオーケストラの指揮も行った。
プティ原本:
Il dirigeait aussi des orchestres qui accompagnaient des ballets du répertoire classique,
Telperion訳:
彼はクラシック・レパートリーのバレエの伴奏をするオーケストラの指揮もした。

現役ダンサーであり続けるのが難しくなったヌレエフが指揮に挑戦したことについて。

通常の演奏でなく伴奏

accompagnerの基本的な意味は「~に伴う」で、音楽用語としては「~の伴奏をする」。オーケストラが伴奏しているのはaccompagnerの目的語である"des ballets du répertoire classique"(クラシック・レパートリーのバレエ)。ヌレエフが指揮したのは、バレエ公演を伴奏するオーケストラ。

新倉真由美の文では、「バレエを伴奏する」が「レパートリーを演奏する」になった。このため、普通のオーケストラ演奏会での演奏のように見える。言うなれば、「ロミオとジュリエット」全幕公演が、組曲「ロミオとジュリエット」の演奏会になったようなもの。

バレエ界からクラシック音楽界への転向しにくさ

クラシック音楽界ではバレエはオペラの添え物扱いで軽視されているらしい。ヌレエフ絡みだと、次のような例がある。

  • Diane Solway著『Nureyev: His Life』ペーパーバックP.312や、Julie Kavanagh著『Nureyev: The Life』ペーパーバックP.320によると、ヌレエフが1964年にウィーンで「白鳥の湖」を振付・演出した際、天下のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に音楽について指示した結果、楽団員たちに反発された。
  • Meyer-Stabley著『Noureev』でヌレエフの談話の中に、「パリ・オペラ座では世界中のオペラ座同様、バレエは役立たず(la cinquième roue du carrosse)と見なされています」という言葉がある。ちなみに訳本『ヌレエフ』で対応する新倉真由美訳は、P.250の「隅に追いやられています」。
  • Meyer-Stableyは『Noureev』で、ヌレエフに音楽界でのバレエ軽視を打破する望みがあったと書いている(「バレエ音楽軽視の現状を変えるため」)

バレエ界のスターであっても音楽の専門家でないヌレエフが指揮する際、オーケストラが主役の演奏会を率いるよりは、バレエの伴奏者となるほうが恐らく敷居は低い。新倉真由美の文の状況がありえないわけではないが、プティの文のほうが納得しやすい。

更新履歴

2015/3/16
見出し変更など

ヌレエフの動揺を答えとする疑問

『密なる時』P.90-91:
医者が落ち着き払った穏やかな声で、非常に慎重に採血した君の血清の検査結果をプラスであると告げた時、一体何をすべきであったのだろう。
プティ原本:
Quel effet cela doit-il faire lorsque avec beaucoup de précautions et avec une voix calme et posée le docteur qui vient vous donner les résultats de votre prise de sang vous annonce que vous être séropositif ?
Telperion訳:
とても注意を払いながら落ち着いた物静かな声で、君に血液検査の結果を伝えに来た医者が、君がHIV陽性だと告げた時、その影響はどれほどだったに違いないだろうか。

HIV陽性を告げられたヌレエフの「そんなはずはない」という内心の叫びをプティが想像したときの前置き。

プティが考えたのは告知のショック

この文の中心となるのは、疑問文"Quel effet cela doit-il faire ?"。

  • doitには英語のmust同様、「~でなければならない」「~に違いない」という2とおりの訳し方がある。
  • "faire effet"または"faire l'effet"は「印象を残す、効果をもたらす」というイディオム。
  • celaは前に述べたことを指す代名詞。

病名告知の場面なのだから、「それはどのような印象を残さなければならないのか」よりは「それはどのような印象を残すに違いないのか」だろう。その問いへの答えとして、プティが想像した「そんなはずはない」というヌレエフの心の叫びが続く。

新倉真由美はこの文を「一体何をすべきであったのだろう」としたが、それには不自然な点が3つある。

  1. プティが想像したヌレエフの内心は、「何をすべきであったのだろう」という問いへの答えにまったくなっていない。
  2. 「一体何をすべきであったのだろう」に主語はないが、人なのは確か。でも原文の疑問文の主語はcela。代名詞celaが人物を指すことはほとんどない。
  3. effetは「結果、効果、影響」といった、何かが起こった結果として生じることを指す。まだ行われていないことを指す言葉には見えない。

慎重にしたのは採血でなく告知

「医者が君に告知する」という意味の文(le docteur から文末まで)には、et(そして)で結ばれた次の2つの語句が付いている。

  • avec beaucoup de précautions (非常に注意して)
  • avec une voix calme et posée (落ち着いた物静かな声で)

一般に、etで結ばれた語句は構文解釈的に同じ役割を持つ。この場合、どちらも医者がヌレエフに告知するときの態度を形容している。

新倉真由美の解釈は次の点がおかしい。

  1. 2つの語句のうち片方が「採血した」、もう片方が「告げた」を形容している。つまり2つの役割が違う。
  2. そもそも原文に「採血した」にあたる言葉はない。

更新履歴

2014/9/23
引用部分の文脈の説明を分かりやすくする

消えた創造者と創造物のたとえ

『密なる時』P.57-58:
ピニョティはフランケンシュタイン博士のように彼を支え、ダンサー特有の問題を克服し調子を上げるのをサポートしていた鎧から、ようやくその肉体を解放した。
プティ原本:
Pignoti tel le docteur Frankenstein libère enfin sa créature de l'armure qui le soutenait et l'aidait à vaincre la difficulté de danser à son rythme survolté.
Telperion訳:
彼を支え、異常に興奮したリズムで踊ることの困難を彼が克服するのを助ける鎧から、フランケンシュタイン博士のようなピニョティは自らの創造物をとうとう解放する。

ヌレエフのマッサージ師ルイジ・ピニョティが、ヌレエフの肉体に巻かれた長い長い粘着テープをはがすさま。

フランケンシュタイン博士は創造者として名高い

プティはピニョティをフランケンシュタイン博士にたとえている。ピニョティが全力を尽くしてヌレエフの肉体をサポートし、その全身脚(2013/11/15修正)を粘着テープでぐるぐる巻きにすることもいとわないさまから、新たな人間を創造するフランケンシュタイン博士を連想したからではないかと思う。フランケンシュタイン博士は人造人間の創造者として名高いのだから、そういう連想をせずにフランケンシュタイン博士の名を出すとは考えにくい。

創造物のたとえ

プティはピニョティがヌレエフの体からテープをはがすのを、「彼の創造物を鎧から解放する」(libère sa créature de l'armure)と呼んでいる。英語のcreatureに比べ、フランス語のcréatureは「(神に)創られたもの」という意味が強い。だからフランス語のcréatureは人間を指す。

この文脈で、「彼の創造物」(sa créature)とは当然ヌレエフ。「彼の創造物」とはピニョティが創り出した人間。「フランケンシュタイン博士のような」と「彼の創造物」は互いに密接に関係する比喩であり、ヌレエフはフランケンシュタイン博士が作った人造人間にたとえられている。

新倉真由美の訳ではぼやけたたとえ

新倉本からフランケンシュタイン博士の比喩を読み取るのは、次の理由から難しくなった。

sa créatureの訳語が「その肉体」
créatureの訳語として「肉体」はありえない。ここでは「創造物」という表現が重要なのに。
「フランケンシュタイン博士のように」の直後が「彼を支え」
まるで「フランケンシュタイン博士のように」が、ピニョティがヌレエフを支える様子の比喩のよう。ただでさえ、「創造物」という表現が消えた時点で、「フランケンシュタイン博士のような」が「新たな人間を造った」という意味だと分かりにくくなったのに。

フランケンシュタイン博士には誰かを支える献身的なイメージはないので。「フランケンシュタイン博士のように支える」は、かなり変な比喩だと思う。

彼を支えるのは粘着テープ

原文で"le soutenait"(彼を支えていた)は、鎧(l'armure)を修飾する長い関係節(qui以降文末まで)の一部。つまり、彼を支えたのは鎧すなわち粘着テープ。新倉真由美の訳だとピニョティのようにも読めるので、明記しておく。もっとも、こういう長い関係節がある文を訳すとき、どの部分がどの部分を修飾しているかを訳文でも明快に反映させるのは骨が折れる作業。紛らわしくても仕方ないかもと思う。

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プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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