伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2014.01.09
レセプションで主役が気づかれないのは奇妙
2013.12.26
ワガノワ時代の苦労は小さくはない
2013.10.04
舞台では自分が一番
2013.04.18
スター・ダンサーではなく運命の星
2013.04.02
ヌレエフの凶暴さは伝聞ほどではないという証言

レセプションで主役が気づかれないのは奇妙

『ヌレエフ』P.168:
ルドルフは化粧を落として一人で現れ、喧騒を興味深く眺めていましたが、彼に気づく人はいませんでした。
Meyer-Stabley原本:
Rudolf était arrivé seul, démaquillé, et curieusement dans le tohu-bohu personne ne l'avait remarqué.
Telperion訳:
ルドルフはメイクを落として一人で来て、不思議なことに大騒ぎの中で誰も彼に気づかなかった。

ヌレエフが公演後のレセプションに来たときのこと。語り手のMario Bois(マリオ・ボワ?)が1993年に著した『Rudolf Noureev』が原本の参考文献一覧にあるので、この本からの引用と考えられる。

新倉真由美による文の分け方

新倉真由美は恐らく、上の文を次の3つに分けている。

  • Rudolf était arrivé seul, démaquillé, (ルドルフは一人でメイクを落として到着した)
  • et curieusement dans le tohu-bohu (そして奇妙にも大騒ぎの中で)
  • personne ne l'avait remarqué (誰も彼に気づかなかった)

これを訳本と照合すると、新倉真由美が「(ルドルフは)眺めていた」という文を新たに創作し、2番目の部分に追加したことが分かる。実際には2番目の部分は主語も述語もない部分的な語句なので、前後どちらかの文を修飾するはず。

本来の文の分け方

文の冒頭から文末のピリオドまでの一区切りの中にいくつかの文が同格に並ぶ場合、それらの文は一般に接続詞またはコンマで結ばれる。上の原文にその原則を当てはめると、次の2つの文を接続詞et(そして)が結んでいると推測できる。

  • Rudolf était arrivé seul, démaquillé (ルドルフは一人でメイクを落として到着した)
  • curieusement dans le tohu-bohu personne ne l'avait remarqué (奇妙にも大騒ぎの中で誰も彼に気づかなかった)

文中のdémaquillé(メークを落として)は明らかにヌレエフを指すので、この単語は1番目の文につながっている。一方、curieusement(奇妙に)の後は接続詞もコンマもなく文末まで続いているので、この単語は2番目の文につながっているのだろう。

何が奇妙なのか

2番目の文にcurieusementが付いている理由は、「レセプションの主役であるルドルフに誰も気づかないなんて、とても奇妙だ」とBoisが考えているためだと思う。

新倉真由美の唱える「喧騒を興味深く眺めていた」は、私から見ると少しおかしなところがある。このエピソードは1969年のことで、ヌレエフは大勢がざわめくレセプションに慣れっこだったはず。興味深く眺めたくなる要素がそのレセプションにあったか疑問。

ワガノワ時代の苦労は小さくはない

『ヌレエフ』P.50:
私は苦痛の限界にいたわけではありません
Meyer-Stabley原本:
Je n'étais pas au bout de mes peines,
Telperion訳:
私の苦痛には終わりがなかった。

ヌレエフがワガノワ・アカデミーで周囲に反発されたことを述懐する自伝の引用の始まり。

boutは「端、果て」という意味で、それを使ったイディオム"au bout de ~"は「~の果てに、~の終わりに」。これを当てはめるとヌレエフの言葉の直訳は「私は私の苦労の終わりにはいなかった」となる。つまり「苦労の連続だった」。実際、引用部分ではヌレエフが反感を買い始めたことを丁寧に語っており、その中に「あんなのは大した苦労ではない」という文が入っていてはしっくりしない。

au bout deの用例

新倉真由美は「終わり」を「限界」に読み替えているように見える。しかし残念ながら、辞書の用例を見る限り、"au bout de ~"は「~の限界に」でなくあくまで「~の終わりに」として使われている。ためしに『プログレッシブ仏和辞典第2版』から用例を抜粋してみる。

  • arriver au bout d'un travail
    仕事をやり終える(Telperion注: 直訳は「仕事の終わりに達する」)
  • Il n'est pas au bout de ses peines.
    彼はまだ難渋している
  • au bout d'un certain temps
    しばらくたって(Telperion注: 直訳は「ある時間の終わりに」)

ここでの第2項で今回と同じ表現が出ている。なお、この表現は有志が作成した辞書サイトWiktionnaireにイディオムとして載っている。

ne pas être au bout de ses peines
Ne pas avoir fini de rencontrer des obstacles, d'éprouver des contrariétés, des chagrins.
障害に遭遇し、困難や嘆きを感じることが終わっていない(Telperion訳)

舞台では自分が一番

『ヌレエフ』P.162:
過小評価する人たちに対しては躊躇せず怒りをぶつけた。
Meyer-Stabley原本:
il ne se prive pas de s'emporter contre ceux qui ne le mettent pas assez en valeur.
Telperion訳:
自分を十分よく見せない者たちにはためらわず怒りを覚えた。

ヌレエフの「自分が舞台に登場するときは注目を集めなければならない」という熱弁が引用されるすぐ前の文。

原文にある"mettre ~ en valuer"は「~を利用する、~をよく見せる」というイディオム。ここで「彼を十分利用しない者たちに怒りを覚えた」では意味をなさないので、「彼を十分よく見せない者たちに~」のほうが正しい。実際、後の熱弁に続けるには「よく引き立ててくれない」のほうが望ましい。

『密なる時』にもある同じ誤解

イディオム"mettre en valuer"はプティの『Temps Liés avec Noureev』で2個所見かけた。どちらも「よく見せる」の意味で使われている。一方新倉訳『ヌレエフとの密なる時』では、先に出たほう(記事「ヌレエフの公演を引き立てるための友人」)は「評価する」、後にでたほう(「『ヌレエフと仲間たち』プログラムの特徴」)は「利用し引き立てる」。どうやら新倉真由美はイディオム"mettre en valuer"を「評価する」という意味だと早合点しがちらしい。ただし『密なる時』2番目の個所では仏和辞書を調べた形跡があるが、さかのぼって1番目の個所を修正するには至らなかった模様。

スター・ダンサーではなく運命の星

『ヌレエフ』P.245:
ヌレエフは世界で最も美しいバレエ団の芸術監督という特権的な肩書にアプローチしようとした。そのバレエ団のプリマバレリーナはもはや輝きを放っていなかったが。しかし彼は落とされた。
Meyer-Stabley原本:
Noureev pense enfin accéder au titre suprême, directeur artistique de la plus belle compagnie de danse au monde, sa bonne étoile ne brille plus aussi intensément. Il est recalé.
Telperion訳:
ついにヌレエフは世界で最も美しいバレエ団の芸術監督という至高の称号を手にすることを考えた。彼の幸運の星はもう同じくらい強く輝きはしなかった。彼は落とされた。

1970年代にヌレエフがロイヤル・バレエの芸術監督になるという話がもちあがったことについて。この時期はフォンテーンの引退とも重なっていた。

原本でétoileは、一般のスター・ダンサー、またはパリ・オペラ座バレエの最高階級のダンサーを指す言葉として、何度となく使われている。しかし仏和辞書でétoileを引くと、「運勢の星、運命」という意味もあり、「être né sous une bonne [mauvaise] étoile 幸運[不運]の星の下に生まれる」という用例まである。引用部分の"sa bonne étoile"は文字通りには「彼(それ)の良い星」だが、ヌレエフの運勢の強さを指すのだろう。「同じくらい強く(aussi intensément)」という言葉で比較している対象がロイヤル・バレエか、それともかつてのヌレエフの幸運の星かは、私には判別できないが。

新倉真由美は"sa bonne étoile"がプリマ・バレリーナ、恐らくはフォンテーンを指すと考えているらしい。しかし、以下の理由から、私はその考えに賛成しない。

  1. 「ヌレエフはロイヤル・バレエの監督になることを考えた」と「彼は落とされた」の間に「そのスター・ダンサーはもう同じくらい強くは輝かなかった」が割り込むのは、なんとも唐突で脈絡がない。新倉真由美は「輝きを放っていなかった」の後に「が」を追加したり、「彼は落とされた」の前に「しかし」を追加したりして、自然なつながりに見せようとしているが、これらに対応する言葉は原文にない。
  2. Meyer-Stableyはフォンテーンの引退に触れるとき、「少しずつキャスティングから離れていくように見えた」「最後になる“ロミオとジュリエット”」(『ヌレエフ』P.218)「最後の“マルグリットとアルマン”の公演」(同書P.200)というマイルドな書き方をしている。なのにここで必要もなく、「同じくらい強くは輝かなかった」という、フォンテーンの衰えを強調する表現を使うとは信じられない。新倉真由美が「同じくらい強く」を省いたせいで、訳文はとてもきつく、なおさら異様。

ヌレエフの凶暴さは伝聞ほどではないという証言

『ヌレエフ』P.211:
バレリーナのマイナ・ジルガドはヌレエフが巻き起こした残忍な伝説について記述している。
Meyer-Stabley原本:
La danseuse Maïna Gielgud décrit la légende de férocité qui précédait Noureev :
Telperion訳:
ダンサーのメイナ・ギールグッドはヌレエフに先行する凶暴さの伝説について述べている。

précéderは「先行する、先を越す」といった意味。「ヌレエフに先行する凶暴さ」(férocité qui précédait Noureev)とはどういう意味か、この文だけでは私には推測できなかった。しかし、読み進めると次第に分かってくる。

続いてギールグッドが語ること
彼がパートナーにひどい態度を取ったという話をたくさん聞いていた。しかし彼は共演のとき私をいつも助けてくれた。
ギールグッドの談話の後でMeyer-Stableyが述べたこと
実際にはヌレエフほどパートナーをよくサポートする男性ダンサーはめったにいない(「三日月クラシック」の原文比較記事より「P.211 実際ヌレエフが~」の項)。バレリーナが全力を尽くしているのが伝われば、彼はどこまでも辛抱した。

「ヌレエフは言われているほどパートナーに横暴ではない、むしろ優しい」と書いているのだ。そういう文脈を考えると、ここでの「先行する凶暴さ」とは、日本語の「イメージ先行」という言葉と同じく、広まった話での凶暴さが実際の凶暴さを上回ることを指すと推測できる。

「先行する」は「巻き起こす」と言い換えられる言葉かどうか、私は疑問に思う。「巻き起こす」はヌレエフが発生させるということだから、生まれたものはヌレエフの後から付いてくるというイメージが私にはある。

上にリンクした「三日月クラシック」の記事を読むと分かるが、新倉真由美は「ヌレエフはとてもサポート上手だった」という原文を「ヌレエフは下手なバレリーナをろくにサポートしなかった」とほぼ反対の意味に訳している。ここでもMeyer-Stableyがヌレエフの迷惑行動について書きたがっていると誤解しているのは確実だろう。

2014/1/15
引用文の後の説明を箇条書きにするのを中心に書き換え
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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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