伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2012.10.02
1960年代のヌレエフと諸バレエ団の共演
2012.09.27
plus belleは「より美しい」、ではde plus belleは?
2012.09.16
フォンテーンの鼻
2012.09.14
フォンテーンのあおりを食らったのはパートナー
2012.09.09
Fontesはフォンテーンの母の地元でなく旧姓

1960年代のヌレエフと諸バレエ団の共演

『ヌレエフ』P.160:
マーゴットとの共演で一〇年間彼の生活は確定し、流動的なのはスケジュールだけだった。彼らはロイヤルバレエ団の公演に定期的に出演していたが、契約が中断している間には短期間でも頻繁に海外に遠征していた。
Meyer-Stabley原本:
Avec Margot, sa vie est fixée pour les dix années à venir et elle ne variera que dans le détail. Ce seront des apparitions régulières avec le Royal Ballet, tant à Londres que lors de tournées à l'étranger, entrecoupées d'engagements plus brefs mais fréquents avec d'autres compagnies.
Telperion訳:
マーゴのおかげで、彼の生活はその後10年間固定され、細かな点だけが変化する。ロイヤル・バレエとともにロンドンでも海外ツアーの時でも定期的に姿を現し、その合間にもっと短期ではあるが頻繁な契約を他のカンパニーと結ぶのである。

1962年にフォンテーンとの共演を成功させた後のヌレエフのダンサー活動について。

ロイヤル・バレエとの共演と他のバレエ団との契約の関係

ここでヌレエフとバレエ団の共演として触れられるのは次の2種類。

  1. des apparitions régulières avec le Royal Ballet (ロイヤル・バレエとの定期的な出現)
  2. engagements plus brefs mais fréquents avec d'autres compagnies (他のカンパニーとのさらに短いが頻繁な契約)

他のバレエ団との契約は"entrecoupées d'engagements"(契約によって中断される)という形で触れられる。entrecoupéに語尾esが付いていることから、中断されるのは複数形の女性名詞だと分かる。該当する女性名詞はapparitions。つまり、ロイヤル・バレエとの共演を他のバレエ団との契約が中断する。

新倉真由美は中断されるのが契約だと思ったらしい。でもentrecoupéesとengagementsの間には前置詞deが挟まっているので、entrecoupéesはengagementsを修飾しない。それにengagementsは複数形の男性名詞なので、entrecoupéがこれを修飾するなら語尾はesでなくsのはず。

ロイヤル・バレエとの共演は海外でもある

"tant à Londres que lors de tournées à l'étranger"はイディオム"tant A que B"(Aと同様にBも)の用例であり、「ロンドンでも外国でのツアー中でも」。これは前にあるロイヤル・バレエとの共演について述べている。ロンドンと外国ツアーはひとまとまりになっており、片方がロイヤル・バレエ、もう片方が他のバレエ団に振り分けられるのではない。実際、ヌレエフはロイヤル・バレエとともに海外にも遠征している(訳本P.146にあるニューヨーク公演など)。

「細部が変わる」と「スケジュールが流動的」は同じか

「細部だけが変わる」は"ne variera que dans le détail"の直訳。これを「流動的なのはスケジュールだけ」と言い換えるのには違和感を覚える。スケジュールが流動的な状態を「生活が確定し」と呼べるのかどうか。

2014/3/6
主に「ロイヤル・バレエとの共演と他のバレエ団との契約の関係」の書き直し

plus belleは「より美しい」、ではde plus belleは?

『ヌレエフ』P.141:
拍手喝采が彼女をより一層美しくしていました。
Meyer-Stabley原本:
Les acclamations reprirent de plus belle.
Telperion訳:
ひときわ高まった喝采がまた始まりました。

1962年2月21日、フォンテーンとヌレエフが「ジゼル」で初共演を果たした後、いつまでも続くカーテンコールの情景。

"de plus belle"は「いっそう激しく、前よりひどく」というイディオム。仏和辞書でbeauを引くと載っている。新倉真由美による「彼女をより一層美しくして」は、次のことからの類推ではないかと思う。

  • 形容詞beauの最もメジャーな意味は「美しい」。
  • belleはbeauの女性形。
  • plusが形容詞の前に付くと、形容詞の比較級「もっと~」になる。

述語で使われている動詞reprendreは目的語がないので、ここでは自動詞として使われている。自動詞としてのreprendreの意味はそう多くなく、そのなかでは「再開する」が最も文脈に合う。

フォンテーンの鼻

『ヌレエフ』P.142:
彼女は結婚前、直感を働かせ、だまされているのではないかと注意を払った。
Meyer-Stabley原本:
Elles a pris soin de se faire refaire le nez avant le mariage.
Telperion訳:
彼女は結婚前、鼻の整形に注意を払った。

"se faire A(他動詞) B(他動詞の目的語)"とは、「BをAさせる、してもらう」という意味で、使役の表現の一種。Aにあたるrefaireには「やり直す」「元通りにする」などさまざまな意味があるが、Bにあたるのが"le nez"(鼻)なので、それに合いそうな意味は「直す」ではないかと思う。

refaireには「~をだます」という意味もある。しかしその場合の目的語はだまされる人なので、鼻が目的語になっている上の文に当てはめることはできない。

別な資料での言及

フォンテーンが鼻の整形手術を受けたことがあるのは事実らしく、Telegraph紙のローラン・プティ訃報記事にはこんな一文がある。

原文:
Fonteyn had cosmetic surgery to shorten her nose at his suggestion (though the operation was redone in London).
Telperion訳:
フォンテーンはプティの提案で鼻を低くする整形手術を受けたことがあった(しかし手術はロンドンで再び行われた)。

Meredith Daneman著の伝記『Margot Fonteyn』でも触れられているらしい(英国amazonで「なか見!検索」してみた)。もっとも、フォンテーンの再整形と結婚の間に関連があるかは分からない。

フォンテーンのあおりを食らったのはパートナー

『ヌレエフ』P.132:
そしてその至高の優美、完璧な優雅さ、寛大な心と舞台栄えがして存在感を放つ容姿は、ライバルたちを青ざめさせたものでした。
Meyer-Stabley原本:
une grâce de souveraine, une élégance parfaite, une grande générosité de cœur et une présence scénique qui irradiait et faisait pâlir ses partenaires.
Telperion訳:
至高の優雅さ、完璧な優美さをそなえ、心は大変広く、舞台での存在感は四方にあふれ出て、パートナーを色あせさせていた。

プティが列挙したフォンテーンの美点の抜粋。

partenaire(パートナー)はバレエの文脈ではパ・ド・ドゥーの相手を指すことが圧倒的に多い。仏和辞書を引いても、partenaireは一対一の緊密な関係がある相手を指す言葉で、プリマ・バレリーナとそのライバルたちの関係には当てはまらない。プティが言っているのは、ヌレエフより前にフォンテーンと組んだパートナーたちがいずれも、ヌレエフのように自分を対等に見せるタイプではなく、フォンテーンを立てるのに徹していたこと。

関係節"qui irradiait et faisait pâlir ses partenaires"(発散し、パートナーを色あせさせていた)の述語irradiaitとfaisaitの活用語尾は三人称単数形。だから、この関係節は単数の事柄を修飾していると分かる。つまり直前の"une présence scénique"(舞台での存在感)のみ。実際、優美さや優雅さならともかく、「フォンテーンの寛大な心がパートナーを色あせさせた」というのはあまり現実的でないように思える。

Fontesはフォンテーンの母の地元でなく旧姓

『ヌレエフ』P.132:
フォンテーンはブラジル出身でフォント育ちの母親の名前からつけたステージネームだった。
Meyer-Stabley原本:
(Fonteyn, son nom de théâtre, lui vint de sa mére, elle-même née Fontes, d'origine brésilienne)
Telperion訳:
(芸名フォンテーンは、自身の旧姓がフォンテスであり、ブラジル出身の母に由来する)

ヌレエフの無二のパートナー、マーゴ・フォンテーンの説明から。

néeは「生まれた」という意味。néeの直後に名前が続く場合、その名前は生まれたときの名を意味する。引用文ではnéeの直後にFontesが続いているので、Fontesは母が生まれたときの名。ちなみに、「旧姓は」という意味のnéeは、英語にもなっている。

生まれた場所を示すためにnéeを使う場合、「née + 場所を示す前置詞(àなど) + 場所の名前」となる。引用文はその語順でないので、Fontesは地名ではない。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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