伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2014.07.30
トールチーフとブルーンがかつての恋人だという示唆
2012.11.21
トールチーフとバランシンやブルーンの縁がヌレエフを魅了
2012.11.20
マリア・トールチーフの談話がロゼラ・ハイタワーのものに
2012.07.09
トールチーフとブルーンやバランシンのつながり

トールチーフとブルーンがかつての恋人だという示唆

『ヌレエフ』P.127-128:
彼女は周知のとおりバイ・セクシュアルなエリックがタタール人に惹かれ、彼女のロマンスが終わってしまうかもしれないと思ったが、自分が紹介したダンサーを二人とも失うとは想像していなかった。
Meyer-Stabley原本:
Même si elle sait que sa romance danoise est terminée, qu'Erik, bisexuel notoire, ne peut qu'être attiré par le Tartare, elle peine à comprendre qu'en présentant les deux danseurs l'un à l'autre elle les perd tous les deux.
Telperion訳:
自分のデンマークのロマンスに終止符が打たれたこと、周知のバイセクシャルであるエリックがタタール人に魅了される以外にないことは知っていても、2人のダンサーを互いに紹介することで2人とも失うと理解するのは、彼女には難しかった。

マリア・トールチーフの仲介でヌレエフとエリック・ブルーンが知り合い、互いに相手に夢中になったことについて。ヌレエフとブルーンが合う前、ヌレエフとトールチーフはきわめて親密な関係だった。

以前私は記事「トールチーフとバランシンやブルーンの縁がヌレエフを魅了」でこう書いた。

トールチーフとブルーンが以前恋愛関係にあったことは、ヌレエフとブルーンが出会う場面でほのめかされている。

そのとき頭にあったのが、ここで取り上げる文。しかしトールチーフとブルーンの関係がほのめかされているのは、あくまで原本のこと。新倉真由美の文では違うということに今さら気づいたので、補足のために取り上げる。

根拠1. ロマンスの相手はデンマーク人

原本の記述

原本からの引用で一番注目してほしい個所は"sa romance danoise"(彼女のデンマークのロマンス)。「デンマークの」が付いているのは、相手がデンマーク人のブルーンだから。

すでにトールチーフは"la compagne du danseur Erik Bruhn"と呼ばれている。先ほど触れた記事では私はcompagneを「愛人」としたが、ラルース仏語辞典によると、男女関係でのcompagneはもっと重い意味で、妻または内縁の妻の位置を占める女性。"sa romance danoise"を読んだとき、原本の読者はすぐにブルーンのことだと悟ることができる。

新倉本の記述

しかし新倉本では、danoise(デンマークの)が訳されず、単なる「彼女のロマンス」になった。前のページで当時トールチーフとヌレエフが恋人同士だったことが書かれている一方、ブルーンはトールチーフの「仲間」。新倉本の読者が「彼女のロマンス」から思い浮かぶのはヌレエフとのロマンスしかない。

根拠2. ロマンスは過去のもの

新倉本の記述

新倉本でさらに追い打ちをかけているのが、「彼女のロマンスが」に続くのが「終わってしまうかもしれない」だということ。つまりこのロマンスは現在進行中だとされている。トールチーフの現在進行中のロマンスといえば、やはり相手はヌレエフになる。

原本の記述

原本で「終わってしまうかもしれない」に当たる述語は"est terminée"(終わった)。未来形でもなく、推測もなく、断定している。ヌレエフとのロマンスをこの時点でそう表現するとは思えない。

原本を厳密に読むと、最初にトールチーフとブルーンの関係が触れられるとき、「トールチーフはバランシンのかつての妻だった」(elle a été la troisième épouse de George Balanchine,)の後に、"ainsi que la partenaire et la compagne du danseur Erik Bruhn"(ブルーンのパートナーそして伴侶なのと同様に)と続いている。トールチーフとブルーンが親密だったのは、トールチーフがバランシンの妻だったのと同様、もはや過去のこと。「終わった」という表現に合う。

Solway本の記述

なお、Diane Solway著『Nureyev: His Life』ペーパーバックP.186-7には、トールチーフがヌレエフと出会うドーヴィルを訪れる1か月前にブルーンと破局したとある。別れ際にトールチーフがブルーンに「亡命したロシア人に会いに行くから。彼が私の新しいパートナーになるのよ!」という言葉を叩きつけたという逸話もあり、その出典はブルーンの生前に出版された伝記『Erik Bruhn: Danseur Noble』(John Gruen著)。著者John Gruenはブルーンに取材しているので、ブルーンの談話だと思われる。

トールチーフの懸念の違い

ロマンスの相手が原本ではブルーン、新倉本ではヌレエフ。このため、引用前半でトールチーフが予想したことに違いが生まれた。

Meyer-Stabley原本
トールチーフと別れて一人身になったブルーンがヌレエフに恋をする
新倉本
ブルーンがヌレエフに惹かれた結果、自分とヌレエフのロマンスが終わるかもしれない

どちらの本でも、トールチーフになかなか分からなかったのは、ヌレエフとブルーンが相思相愛になり、トールチーフが弾き出されること。

原本のほうが理解しやすいトールチーフの心境

原本の場合、「一人身になったブルーンが魅惑的なヌレエフを次の恋の相手にするとは分かっても、まさかヌレエフがブルーンに応えるとは思わなかった」という流れになり、すんなり納得できる。ヌレエフはまだ亡命したばかりで、同性愛志向は周りに知られていなかったのだから。

ところが新倉本では、予想した「ヌレエフとのロマンスが終わるかも知れない」と、想像しなかった「二人とも失う」が同じことを指すように見える。「想像したのかしなかったのか、どっちだよ」と言いたくなる。「『かも知れない』と予想はしても、予想が実現するとまでは思わなかったのかも」とか、「ヌレエフとブルーンが両思いにならなくても、トールチーフとヌレエフの仲は気まずくなるのかも」とかいう論理を考え付くことは多分できる。でも原本がそうでない以上、こういう推測は骨折り損でしかない。

トールチーフとバランシンやブルーンの縁がヌレエフを魅了

『ヌレエフ』P.126:
当時三六歳だった彼女は確かに魅力的だった。彼女はジョルジュ・バランシンの三番目の妻で、ダンサー・エリック・ブルーン*1のパートナーで仲間でもあった。
Meyer-Stabley原本:
À trente-six ans, elle possède certes une vraie présence magnétique, mais surtout elle a été la troisième épouse de George Balanchine, ainsi que la partenaire et la compagne du danseur Erik Bruhn, qui fascine Rudolf depuis son passage à Moscou* :
Telperion訳:
36歳の彼女には、確かに本物の磁力のような存在感があった。しかしなかでも、彼女はかつてジョージ・バランシンの3番目の配偶者であり、またモスクワに立ち寄って*以来ルドルフを魅了したダンサー、エリック・ブルーンのパートナーであり愛人だったのだ。

1961年にマリア・トールチーフが少しの間ヌレエフと恋愛関係にあったことについて。

重要なのはバランシンやブルーンとの縁

原文の"certes A, mais B"(確かにAではあるが、Bである)という構文が使われるのは、Bへの反論となるAを認めはするが、本当はBを主張したい場合。

  • Aに当たるのは、maisの前にある「トールチーフに魅力がある」
  • Bに当たるのは、maisの後にある「トールチーフはバランシンやブルーンとつながりが深い」

つまり、Meyer-Stableyが強調しているのはトールチーフの魅力でなく、トールチーフの人間関係。この説は原本では少し後で再び書かれているし(トールチーフとブルーンやバランシンのつながり)、次の伝記にもある。

  • 『Nureyev: His Life』(Diane Solway著)、ペーパーバックP.186
  • 『Nureyev: The Life』(Julie Kavanagh著)、ペーパーバックP.160

新倉真由美の訳文では、トールチーフの魅力については「確かに」(certes)とある一方、人間関係については「しかしとりわけ」(mais surtout)という強調がない。このため、Meyer-Stableyが強調したいのはトールチーフ個人の魅力であり、人間関係は単にトールチーフの紹介として出したに過ぎないように見える。

トールチーフは当時独身

「彼女はジョージ・バランシンの3番目の配偶者だった」の述語"a été"の時制が直説法複合過去なのは、1961年当時より過去のことを指しているから。実際、当時すでにトールチーフとバランシンは離婚していた。新倉真由美の文だとトールチーフが不倫したとも受け取れるので、念のため書いておく。

トールチーフとブルーンはかつての恋人同士

compagneには「仲間」「愛人」両方の意味がある。トールチーフとブルーンが以前恋愛関係にあったことは、ヌレエフとブルーンが出会う場面(訳本P.127)でほのめかされているので、ここでは「愛人」として構わないと思う。

ヌレエフがかつてブルーンの舞台に魅了されたことの省略

原文にはブルーンについて、関係節"qui fascine Rudolf depuis son passage à Moscou*"(モスクワでの滞在以来、ルドルフを魅了した)という説明がある。モスクワでの滞在とは、1960年にブルーンがABTとともにモスクワで公演したことを指す(新倉本P.73-74)。新倉真由美がこの部分を省略したため、ブルーンがヌレエフに及ぼす影響の大きさも、ヌレエフがトールチーフの何に引き付けられたかも、さらに分かりにくくなった。

おまけ - この部分に付いた注は原文も訳文も問題あり

引用した部分には注が付いている。原文で注マークが「彼のモスクワ滞在」(son passage à Moscou)に付いていることからほのめかされるとおり、注の内容はブルーンのモスクワ公演に関係する。しかしこの注はいろいろと問題があり、これだけ読んでもモスクワ公演に関係する内容だと分かるのは難しい。「三日月クラシック」の記事とコメントでミナモトさんと私が何度か書いているので、単独記事は書かず、ここで簡単にまとめる。

  • ヌレエフが友人に録画してもらったモスクワ公演の映像を後で見てブルーンに熱狂したのは、さまざまな伝記に書かれている。多分Meyer-Stableyは注でこのことを書いている。
  • しかし原文には、ブルーンまたはヌレエフ(私はブルーンだと思う)を指して"l'âge de dix-neuf"(19歳)とある。1960年にはブルーンもヌレエフも19歳ではない。
  • 訳本ではfilm(映像)が「映画」と訳された。

更新履歴

2014/1/24
注の説明を加えるのを中心に大幅に書き換え
2016/5/11
諸見出しを変更

マリア・トールチーフの談話がロゼラ・ハイタワーのものに

『ヌレエフ』P.126:
マリアは端麗な一方子どもっぽい一面もあるルドルフに魅力を感じ、彼から目が離せなくなっていきました」
Meyer-Stabley原本:
Ils avaient beaucoup de choses en commun. » Maria trouve Rudolf si beau, si enfantin, si attirant « que je ne pouvais détacher mes yeux de lui ».
Telperion訳:
2人には共通点がたくさんありました」。マリアはルドルフがあまりに美しく、あまりに子供らしく、あまりに魅力的だと思ったので、「彼から私の目を離すことができませんでした」。

亡命間もないころのヌレエフとマリア・トールチーフの出会いについて。

引用した部分の語り手は3人いる。

  1. ロゼラ・ハイタワー
    日本語訳だと「2人には共通点がたくさんありました」になる最初の部分は、その前から続いているハイタワーの談話の一部。ハイタワーの談話がここで終わることは、原文でこの後に閉じ括弧(»)が続くことから分かる。この原文は訳本では省略されたが、ハイタワーの談話がいつ終わるのかを正確に示すために訳出した。
  2. Meyer-Stabley
    ハイタワーの談話の後の「マリアはルドルフがあまりに~だと思ったので」は、Meyer-Stableyの叙述。
  3. マリア・トールチーフ
    日本語訳だと「彼から目を離せなかった」となる最後の部分は、文中に「私の目」(mes yeux)とある。だからこの部分はトールチーフ自身による述懐だと分かる。Meyer-Stableyがこの部分を括弧のペア(«と»)で囲んだのは引用だから。

しかし新倉真由美はMeyer-Stableyの文もトールチーフの語りも、みなハイタワーの談話に放り込んだ。

なお、原本の参考文献一覧にはトールチーフの自伝『Maria Tallchief : America's Prima Ballerina』が挙がっている。トールチーフの言葉はこの本からの引用である可能性が高い。

2014/1/23
主に箇条書きの導入

トールチーフとブルーンやバランシンのつながり

『ヌレエフ』P.127:
マリアはバランシンとブルーンとの間でバランスを保つのに最良の手段を講じていた。一方ルドルフはブルーンの話ばかりしていた
Meyer-Stabley原本:
Maria représente surtout le meilleur moyen d'entrer en contact avec Balanchine et Bruhn. D'ailleurs Rudolf ne cesse de lui parler de ce dernier.
Telperion訳:
マリアは何より、バランシンとブルーンにコンタクトを取る最良の手段を表していた。しかもルドルフはマリアにブルーンの話をするのをやめなかった。

ヌレエフと一時期付き合っていたマリア・トールチーフについて。

トールチーフがヌレエフのために役立つ面

"entrer en contact avec ~"は「~との間でバランスを保つ」でなく「~と連絡を取る、知り合いになる」。トールチーフがバランシンやブルーンと連絡を取る手段だというのは、トールチーフならヌレエフをバランシンやブルーンに会わせることができるという意味だろう。実際にヌレエフはトールチーフの紹介でブルーンに会うことになる。

représenterは「講じる」でなく「表す、代表する、意味する」など。それに、トールチーフがヌレエフをブルーンに紹介することを決心するのはこの文の後なので、ここで「講じる」という言葉を使うのは早すぎる。

第2文は第1文の傍証

仏和辞書にあるd'ailleursの意味は主に2つ。

  1. 前に述べたことに付け足すための「その上、しかも」
  2. 前に述べたことと反することを言う時の「~ではあるが」

この場合は、1番目の意味で使われていると考えればつじつまが合う。「マリアがバランシンやブルーンとつながっているのがルドルフにとって魅力的だった」と主張するMeyer-Stableyは、その説を補強するために「ルドルフはひっきりなしにブルーンの話をしていた」と続けているのだろう。

d'ailleursの意味として「一方」は見当たらない。新倉真由美は"par ailleurs"と見間違えたのではないかと思う。

新倉真由美の文の現実性の低さ

バランシンとブルーンは関係が薄い。1963年か1964年にブルーンが「アポロ」客演のためにニューヨーク・シティ・バレエでバランシンの指導を受けたが、結局公演は実現せずじまいだったことが、『Nureyev: His Life』(Diane Solway著)や『バランシン伝』(バーナード・テイパー著、長野由紀訳、新書館)で触れられている。ヌレエフがトールチーフやブルーンと知り合う1961年では、バランシンとブルーンは面識すらなかったかも知れない。ヌレエフだろうとトールチーフだろうと、2人の間でバランスを取る必要があったとは思えない。

更新履歴

2014/1/24
小見出しの導入などによる書き換え
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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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